歴代日本人最強ボクサーPFPランキングTOP10

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はじめに

60年以上前、最も権威のあるボクシング誌といわれている、RING誌で
「シュガー・レイ・ロビンソンがヘビー級の選手と体重が同じ状態で戦ったら勝つだろうか?」
と特集したのが、パウンド・フォー・パウンドの始まりであったといわれていますが、最近になってある新聞記事がツイッター上に登場しました。

その記事ではPFPの起源は1800年ボブ・フィッシモンズが紙面上で、体重同一想定時でも1番強いと紹介されていたといいます。


どの時代でも、だれが1番強いかという議論や想像はファンにとって楽しいものです
そこで今回は日本人歴代PFPランキングTOP10を作成してみました。
尚、このランキングは、日本人のランキングになります、日本のジム所属の外国籍の選手は入れておりません。
徳山選手、ユーリ選手、ナザロフ選手、藤猛選手などは入っておりません。

日本人に限定しない歴代PFPランキングは↓

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何を基準に選ぶのか?

時代と階級を超えて全ボクサーを比べるわけですから、難しいです。
そこでこのランキングでは、各ボクサーの技術、パンチ力、スピード、スタミナ等はもちろんのこと、防衛回数、複数階級の制覇など、成し遂げたこと、さらには誰と戦って、勝ったかなどを吟味してランキングを作成しました。
しかし、私は専門家でもボクシングトレーナーでもありません。ですので専門的な技術や、ボクサー達の精神的なことなど、解らないところもあるかとは思いますので、予めご了承下さい。
ただ、1人のボクシング好きな人間が作成したものだと思って観ていただけると幸いです。

目次

10位~6位

第10位:平仲明信

平仲明信(生年月日: 1963年11月14日)

平仲選手は元WBA世界スーパーライト級(旧ジュニアウェルター級)王者です。沖縄出身の選手で、本名は平仲信明ですが、明信の方が勝負運が良いと、占いで言われ、プロデビューと同時に明信の方を使用するようになります。
沖縄のヒーロー具志堅用高さんが負けた試合を観て「仇(かたき)を討つ!」と決意したのが、ボクシングを始めた動機だったといいます。
地元沖縄の高校でボクシングを始めますが、始めて間もなく出場したインターハイでいきなり優勝します。9連続KO勝ちという記録付きです。
まだボクシングを始めたばかりだった平仲選手は体育館履きで試合に出場していたといいます。
高校卒業後は名門日本大学に進学し、全日本選手権で優勝を飾っており、ロサンゼルス五輪にも出場していますが、2回戦で敗退。
オリンピックの強化合宿では、後の世界ストロー級王者大橋秀行さんと一緒になっています。アマチュア通算戦績は43勝37KO5敗という素晴らしいものです。(諸説あり)
沖縄愛の強い平仲選手は、大手ジムからのスカウトを断り、地元のジムからデビューします。特例のA級デビューとなりました。
田名部選手を6ラウンド(2分59秒)でKOして、日本タイ記録(後に辰吉選手、井上選手も同記録)の4戦目での日本タイトルを獲得。その後、同タイトルを9度防衛(8KO)します。
初の世界挑戦はイタリアでフアン・マルティン・コッジへの挑戦でした、コッジはアルゼンチン出身ですが、祖父母がイタリア人のため、王者の地元のようなものです。
またコッジは後に、日本で吉野弘幸や坂本博之を下すなどする名チャンピオンです。
平仲選手は1ラウンドにダウンを奪われます、(1分7秒)しかし、3ラウンドに2度ダウンを奪い返す(秒数非表示)健闘を見せますが、惜しくも判定で敗れています。
2度目の世界挑戦もやはり海外のリングでした。メキシコで行われたフリオ・セサール・チャベスの防衛戦の前座に登場します。
チャンピオンはエドウィン・ロサリオ(プエルトリコ)です。
ロサリオはこれまで、チャベスやカマチョといった名王者たちとも拳を交えてきた名チャンピオンですが、平仲選手は入場時から、日本、メキシコの両国旗を手に入場するなどして、観衆を味方に付けます。そして試合は、わずか92秒で平仲選手の勝利となりました。平仲選手らしい強打を見せてのタイトル奪取でした。
しかし、平仲選手は初防衛戦で無名のモーリス・イースト(フィリピン)相手にまさかの逆転KO負けを喫してしまいます。(11R2分45秒)
後に、ある雑誌で輪島功一さんと対談した平仲選手は、この試合時、オーバーワークであったことを明かしています。
平仲選手はアマチュアでのキャリア、地方ジムのハンデを抱えながら世界を取ったこと、日本人が苦手とする敵地での世界奪取、コッジやロサリオといった名選手と戦ったことなどを考慮してのランク入りです。
もし平仲選手が初防衛戦に勝っていたら、チャベスやカマチョといった、ビッグネームとラスベガスでの対戦もありえたと思います。それを考えるだけでも胸が高鳴りますね。
ということで、第10位は平仲明信選手でした。

第9位:辰吉丈一郎

辰吉丈一郎(生年月日: 1970年5月15日)
辰吉選手はWBC世界バンタム級タイトルを3度(暫定王座含む)獲得した、90年代を代表する日本人ボクサーです。
岡山県出身の辰吉選手は、10代の頃プロボクサーを志し大坂へ行きます。実家を出る際に父親に「出世するけん」と言ったそうです。
名門大阪帝拳ジムに入門後、瞬く間に頭角を表します。練習生時代から、スパーリングでアマチュア国体2位の選手を1分で倒したりと、様々なエピソードがあります。
入門後しばらくしてから、いきなりトレーナーから「アマチュアの試合に出場しろ」と試合数日前にいわれ、根性で減量してアマチュアのデビュー戦に臨み、KO勝ちで初陣を飾っています。
それから11連続KO勝ちで社会人選手権優勝を若干17歳で飾ります。ソウル五輪の予選を兼ねた全日本選手権では、法政大学の木下選手に判定で敗れ、代表入りを逃しています。
アマチュア通算戦績は18勝18KO1敗です。
そして1989年9月にプロデビュー。相手は韓国ランカーの崔相勉(チェ・サンミョン)です。1ラウンド(2分53秒)右のカウンターでダウンを奪い、2ラウンドに連打でダウンを追加し(33秒)KO勝ちを収めてデビュー戦を飾りました。
しかし強すぎるが故に、日本ランカーすら辰吉選手との対戦を避けます。なかなか次戦の相手が決まらず、いきなり5か月の間隔が開いててしまいます。
ようやく決まった次戦はタイの選手相手に行われ、それもなんなく2ラウンド(2分18秒)でKO勝ちし、3戦目にWBCインターナショナル王者サミュエル・デュラン(フィリピン)と対戦します。
21歳で21勝6KO3敗1分けのレコード、フィリピン期待のホープですが、辰吉選手は3ラウンドにダウンを奪い(1分16秒)7ラウンド(2分2秒)KO勝ちで下しています。
そして4戦目に日本タイトルに挑戦し、王者岡部繁を4ラウンドに左フックからの右ストレートでダウンを奪い(1分10秒)立ち上がってきたところを、連打で2度目のダウン(2分15秒)を奪います。
さらに連打をまとめKO勝ち(2分48秒)。日本最速タイ記録で日本タイトルを獲得します。
(後に井上選手も並ぶ)後に岡部選手は「辰吉君は強かった」と語り、さらに「試合後に辰吉君は控室に来て、失礼なこと言ったりしてすいませんでした(と言った)」と、辰吉選手が謝罪していたことを明かしました。
そして日本最速記録(当時)となる8戦目でグレッグ・リチャードソンの持つ世界タイトルへ挑戦します。
アマで275戦、プロで33戦のキャリアを持つ大ベテラン選手ですが、辰吉選手は初回から果敢に攻め、10ラウンド終了したところでチャンピオンがギブアップして、辰吉選手のTKO勝ちとなります。
辰吉選手にとっての不運はこの試合後に網膜裂孔(網膜剥離の手前)になったことでした。そこで1年のブランクを作ってしまいます。
そして、辰吉選手の留守中に暫定王座についていたビクトル・ラバナレス(メキシコ)との統一戦で9ラウンド(1分35秒)タオル投入のTKO負けで初黒星となります。
約1年後にラバナレスに判定勝ちで雪辱しますが、試合後に網膜剥離になります。
手術をし、完治しますが、日本ボクシングコミッションの規定では「1度網膜剥離になった選手は仮に完治しても日本のリングには上がれない」との条項があり、辰吉選手は引退の危機に瀕してしまいます。
しかしファンの署名運動や、帝拳ジム会長の助力で「世界戦に限り、リング復帰を認める」とコミッションから許可されます。
その後、薬師寺選手との統一戦に敗れ、さらには、2階級制覇を狙った試合で、ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に連敗してしまいます。
引退を掛けて臨んだシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)へ挑戦し、7ラウンドTKO勝ちし(1分54秒)3度目のタイトルを獲得します。
3度目の防衛戦でタイのウィラポンに6ラウンド(2分52秒)KO負けでタイトルを手放します。8か月後の、ウィラポンとの再戦にも敗れ(7ラウンド44秒TKO負け)1度引退しますが、のちに撤回し、その後も何度かリングに上がっています。
辰吉選手は回転の速い連打、ハンドスピード、見切りの良さ。アマ時代から神童、ボクシング界の救世主などとも言われ、素晴らしいレコードを残し、プロ入り後も8戦目での世界タイトル獲得や、奇跡の返り咲きなどを評価して9位にしました。
とにかく当時から常に話題性は1番でした。しかし辰吉選手本人は天才と呼ばれるのを嫌がっていました。
「どんなに難しい事をやってのけても、辰吉(天才)だからできると思われてしまうのが嫌だ」とある雑誌で語っていたことがありました。
「どれだけの努力をしていることか・・・。」と冗談半分で言っていたのを覚えています。
身体的な才能はもとより、ボクシングを愛することにかけても一級品だった選手です。

第8位 大場政夫

大場政夫(生年月日: 1949年10月21日)
大場選手は元WBAフライ級王者です。7人兄弟の貧しい家庭の生まれで、いつも「貧乏が全部悪い」と思っていたそうです。
貧乏から脱するべく15歳で名門帝拳ジムに入門。長野ハルマネージャーは「負けん気の強そうな子」と当時の印象を語っています。
ぐんぐんと成長していき、日本フライ級王者のスピーディー早瀬に判定勝ち、東洋フライ級王者中村剛(たけし)に判定勝ち、そして現役の世界フライ級王者バーナベ・ビラカンポ(フィリピン)にも判定勝ちを飾ります。
全てノンタイトル戦とはいえ、王者たちを下し、世界ランキングをアップしていきます。
21歳で世界タイトル挑戦のチャンスを得ます。相手はタイのベルクレック・チャルバンチャイでした。
大場選手は初挑戦とは思えないような堂々の戦いぶりで、13ラウンド(1分33秒)に右アッパーでダウンを奪い、立ち上がってきた王者にさらに右のカウンターでダウンを奪います(2分1秒)。
再び立ち上がったチャンピオンに連打を浴びせKO勝ち(13ラウンド2分17秒)で見事世界タイトルを掴みます。
タイトル獲得後、母親に家をプレゼントしたという感動エピソードもあります。
そのタイトルを5度防衛(2KO)していますが、最後のチャチャイ・チオノイ(タイ)戦の後に交通事故で帰らぬ人となってしまいました。(ボクシング 感動・泣ける試合TOP10動画で紹介)
大場選手が永遠のチャンピオンと言われる所以です。
大場選手を8位に選んだのは、不屈の闘志や、カウンターのうまさ、ボクシングの才能もありますが、「もしあのまま王者でいたら」という気持ちも強くあります。
まだ23歳の若さでしたので、これからもっと強くなる可能性もありました。どこまで防衛記録を伸ばせたか?あるいは2階級制覇、それ以上を達成できるポテンシャルを持った選手だったと思います。

第7位 内山高志

内山高志(生年月日: 1979年11月10日)
内山選手は元WBA世界スーパーフェザー級王者で、同タイトルを11連続防衛した名王者です。
花咲徳栄(はなさきとくはる)高校時にボクシングを始めます。高校の時には全国大会出場も経験します。大学はボクシングの名門拓殖大学に進学しますが本人曰く「荷物持ちだった」といいます。
しかし徐々に頭角を表し、国体の決勝戦では日本大学のエース飯田育夫(いくお)に接戦の末敗れていますが、試合後、飯田選手は「自分の負けだった」語っています。
長いアマチュアのキャリアで全日本選手権や国体で優勝を飾り、4冠を達成しています。そして、世界選手権にも出場しています。
オリンピックを目標にボクシングをやっていた内山選手ですが、アテネ五輪予選で敗れたため1度ボクシングを辞め、旅行会社でサラリーマン生活を送ります。
しかし同期のボクサー達が活躍しているところを観て感化されプロ入りを決意します。
2005年にB級の6回戦でデビューし、チャンデッド・シスラムカムヘン(タイ)を相手に1ラウンド(35秒)KO勝ちで初陣を飾っています。
8戦めには東洋太平洋タイトル決定戦に出場し、ナデル・フセイン(オーストラリア)に8ラウンド(1分30秒)TKO勝ちで東洋タイトルを獲得。その後13連勝(10KO)で世界初挑戦を迎え、王者フアン・カルロス・サルガド(メキシコ)
に12ラウンド(2分45秒)KO勝ちで、見事に初挑戦で世界タイトルを獲得しています。ここから内山選手の防衛ロードが始まります。
初防衛戦ではベネズエラのアンヘル・グラナドスを6ラウンド(1分42秒)右フック一発でKOし、3度目の防衛戦では同じ日本人で、後にWBC世界スーパーフェザー級チャンピオンとなる三浦隆司(たかし)選手を相手に3ラウンド(2分10秒)ダウンを喫しますが、盛り返し、8ラウンド終了時、三浦選手の右目の腫れのためTKO勝ちとなりました。
三浦選手は後に「あのまま試合を続けてたら殺されていた」と語っています。
4度目の防衛戦ではホルヘ・ソリス(メキシコ)に11ラウンド、(20秒)芸術的な左フックでKO勝ち。
7度目の防衛戦では、ハイデル・パーラー(ベネズエラ)を5ラウンド(2分15秒)左ボディー一撃で倒して、勝利で飾ります。
対戦相手のパーラーは試合終了後もしばらく立ち上がれないほどのダメージでした。
8度目の防衛戦では二度目となる日本人、金子大樹選手を迎え、10ラウンド(2分32秒)にダウンを喫しますが、判定で勝利しています。
後にある雑誌で内山選手は、三浦、金子両選手と対談した際に「ダウンというハンデをあげたのに君たちは俺に勝てなかったね」と冗談ぽく語っていました。
10度目の防衛戦はタイのジョムトン・チュワタナを2ラウンド(1分12秒)ワンツーで倒して勝利しています。内山選手自身はこの試合をベストバウト(最高試合)に挙げています。
しかし12度目の防衛戦でジェスレイル・コラレス(パナマ)に2ラウンド3度のダウンを奪われKO負け(2分57秒)で王座を手放します。
コラレスとの再戦にも判定で敗れた内山選手は引退を表明します。
内山選手の11連続防衛、内9KOという記録は、やはりすごいと思います。破壊力のあるパンチばかりに目が行きがちですが、アマチュアで培った技術も素晴らしかったです。
内山選手はパンチ力強化の秘訣を「大学時代にサンドバッグを強く打ち続けたら強くなった」と語っていますが、当て方も上手い選手で、芸術的なKOを多く演出した名選手でした。

第6位 渡辺二郎

渡辺二郎(生年月日: 1955年3月16日)
渡辺選手は元WBA・WBCスーパーフライ級チャンピオンです。大学卒業後にボクシングを始めていますから、ボクシングとの出会いは遅めといえますが、大学時代に日本拳法で全国4位になったことがあり、格闘センスがうかがえます。
アマチュアで4戦4勝を記録した後、名門大阪帝拳ジムからデビューしています。デビューから7連続KO勝ちを記録し、全日本新人王を獲得しますが、決勝の相手は後のWBC世界フライ級王者小林光二選手でした。
その後も快進撃は続き、10連勝後、WBC世界スーパーフライ級タイトルに挑戦しますが、王者金喆鎬(キム・チョルホ)(韓国)に判定負け。
再起後、4連勝で再び世界挑戦します。
WBA世界スーパーフライ級王者ラファエル・ペドロサ(パナマ)に判定勝ちし、見事に栄冠します。
そして防衛を重ねていきます。初防衛戦ではアルゼンチンのグスタボ・バリャスに9ラウンドKO勝ち(3分)し、2度目の防衛戦では大熊正二に12ラウンド(1分43秒)TKO勝ち。
3度目はペルーの、ルイス・イバネスを8ラウンドKOに下し、(1分22秒)連続KO防衛を重ねます。6連続防衛(5KO)を記録し、7度目の防衛でタイのパヤオ・プーンタラットを迎えますが、パヤオはWBC王者のため統一戦となりました。アマチュアで125戦して3敗しかしておらず、モントリオール五輪銅メダリストです。
試合は高度な技術戦となりますが、渡辺選手が僅差の判定勝ちでタイトルを統一します。
しかし当時WBAとWBCではルールが違ったため、WBA側は渡辺選手の統一を許可せず、幻の統一王者となってしまいました。
保持タイトルはWBCに変わりましたが、防衛は続きます。前戦の判定に納得していない、前王者のパヤオとの再戦がWBCの初防衛戦となりました。
試合は11ラウンドに渾身の左ストレートで渡辺選手がダウンを奪い(1分23秒)同ラウンド1分52秒TKO勝ちを飾ります。
このWBCタイトルは都合4度防衛3KOしますが、5度目の防衛戦でメキシコのヒルベルト・ローマンに判定負けし、引退しています。
渡辺選手は、パンチの見切り、ディフェンス技術、間合い等のセンスが一級品でした。コンピューターのように冷静に相手の出方を伺い、組み立てるボクシングは対戦相手にしてみると、かなり崩すのが難しかったのではないでしょうか。
コンバーテッドサウスポー(右利きを左構えに矯正したサウスポー)だった渡辺選手、日本拳法の構えがサウスポースタイルだったため、そのままそうしたらしいですが、それも相手にやりにくさを与えた理由の1つでしょう。
世界戦14連勝、実質的な統一王者となったことを考慮してのランクインでした。

5位~1位

動画

第5位 長谷川穂積

長谷川穂積(生年月日: 1980年12月16日)
長谷川選手は元WBC世界バンタム級、WBC世界スーパーバンタム級、WBC世界フェザー級で3階級制覇した王者です。
デビュー5戦目の時点では3勝2敗と平凡な戦績でしたが、徐々に頭角を表していきます。その後、8連勝で東洋太平洋バンタム級タイトルに挑戦します。
日本人キラーといわれていたフィリピンのジェス・マーカに判定勝ちでタイトルを獲得。さらに次期世界挑戦者決定戦で、鳥海純に判定勝ちし、世界挑戦権を得ます。
相手はWBC世界バンタム級王者ウィラポン・ナコンルアンプロモーション。
ウィラポンは辰吉選手をKOしてタイトルを獲得して以来、6年3か月の間に14連続防衛中の名王者として君臨していましたが、長谷川選手は挑戦者らしく、果敢に攻めて12ラウンド判定勝ちでタイトルを奪取しています。
初防衛戦でメキシコのヘラルド・マルチネスを7ラウンドKO勝ちで飾り(2分15秒)2度目の防衛戦で前王者ウィラポンとの再戦を迎えます。
後に長谷川選手が「ウィラポンとの再戦は1番モチベーションがある試合だった」と語っているように、万全のコンディションで最高の試合を見せます。
再起後4連勝と調子が良かったウィラポンを初回から攻め立て、9ラウンド(12秒)右フックのカウンター一発でKOして勝利します。
長谷川選手は「ウィラポンは右を打つ時に、左ガードが下がるので、そこを狙った」と語っています。
その後も防衛を続けますが、圧巻だったのは6度目の防衛戦から10度目の防衛戦までの、5連続KO防衛です。この5試合に長谷川選手が費やしたラウンド数はわずか10ラウンドでした。
凄まじい偉業であり、この頃の長谷川選手は無類の強さを誇っていました。
6度目2R2分18秒クリスチャン・ファッシオ(ウルグアイ)
7度目2R2分41秒アレハンドロ・バルデス(メキシコ)
8度目1R2分37秒ブシ・マリンガ(南アフリカ)
9度目1R2分28秒ネストール・ロチャ(アメリカ)
10度目4R2分38秒アルバロ・ペレス(ニカラグア)
見事としかいえない5連続KO防衛、長谷川選手のピークはここだったと思います。
しかし、続く11度目の防衛戦でWBO王者のフェルナンド・モンティエル(メキシコ)に4ラウンド2分59秒TKO負けでタイトルを手放します。
フェザー級に上げ、フアン・カルロス・ブルゴス(メキシコ)に判定勝ちで2階級制覇を達成。
この試合から6年後には、WBC世界スーパーバンタム級タイトルに挑戦し、王者ウーゴ・ルイス(メキシコ)を9ラウンド終了TKOに下し、3階級制覇を達成。
そのまま王座を返上して引退しています。
長谷川選手は決して一発のパンチに優れた選手ではありませんでしたが、スピードとタイミングで芸術的なカウンターを演出して、相手をKOしてきました。
長谷川選手のミット打ちは遠巻きから見ていても、何発打ってるのか分からないほど早かったです。

長谷川選手はあるテレビ番組で、自分がしているトレーニングを公開していたことがあります。
野球帽に伸縮するゴムひもをつけて、その先にテニスボールをくくりつけ、反動で跳ね返ってくるところをパンチで打つ、という動体視力を鍛えるものでしたが、長谷川選手は難なくこなしていました。
タイミングのいいカウンターを打てる動体視力も素晴らしいという証拠ですね。

複数階級制覇、10連続防衛(7KO)の実績、名王者ウィラポンに2回勝った点を評価しました。
特に、バンタム級で連続KO防衛してる頃は、手が付けられないほどの強さでした。

第4位 山中慎介

山中慎介(1982年10月11日)
山中選手はWBC世界バンタム級タイトルを12連続防衛した選手です(日本2位)。
高校はボクシングの名門、南京都高校に進学して、そこでボクシングを始めます。国体やインターハイに出場し上位の成績を収めます。大学進学後はボクシング部でキャプテンを務め活躍。
50戦近いアマチュアキャリアをひっさげ、B級の6回戦でプロデビュー。引き分けを2つはさみ12連勝(8KO)で日本バンタム級タイトルを獲得します。
サウスポースタイルの山中選手は後に「神の左」と形容される、破壊力抜群の左ストレートがトレードマークとなりますが、9戦目からの連続KO勝ちを続けてた際にパンチに自信がついてきた、と語っています。
日本タイトル初防衛戦では当時ランカ―の中では最強と言われ、後にIBF世界スーパーバンタム級王者となる岩佐亮佑選手に10ラウンドTKO(1分28秒)で勝利します。
そして空位となっていたWBCバンタム級王座決定戦に出場し、クリスチャン・エスキベル(メキシコ)と対戦します。山中選手は6ラウンド終了間際に得意の左でダウンを奪い、11ラウンド、またも左ストレートでKOしてタイトルを手にしています。
初防衛を判定で飾り、2度目の防衛戦ではメキシコのトマス・ロハスを7ラウンド(28秒)左ストレート一発で倒します。ロハスを糸の切れたマリオネットのようにキャンバスに沈めた完璧なKO勝利でした。
3度目の防衛戦は元世界王者のマルコム・ツニャカオ(フィリピン)を迎え、3ラウンド終了間際にダウンを奪い、12ラウンド(1分56秒)ダウンを追加しそのままTKO勝ちを飾ります。
その後も、順調に防衛を重ね、9度目の防衛戦では難敵と目されていた、元WBAバンタム級スーパー王者のアンセルモ・モレノ(パナマ)を迎えます。
モレノは同タイトルを12度防衛したベテランの選手ですが、山中選手は判定で辛勝します。
11度目の防衛戦でモレノと再戦し、今度は1ラウンド(2分40秒)にダウンを奪い、6ラウンド(1分)に左ストレートで2度目のダウンを奪います。
そして7ラウンド(1分10秒)またもや左で倒し完全決着をつけました。試合巧者(しあいこうしゃ)のモレノをこのような形で倒し切るところはさすがというほかありません。
12度目の防衛戦ではメキシコのカルロス・カールソンを5ラウンド二回(38秒)(1分10秒)ダウンさせ、6ラウンド(45秒)にもダウンを追加。
そして7ラウンド(57秒)KO勝ちします。
連続防衛日本タイ記録のかかった13度目の防衛戦。相手はメキシコのルイス・ネリでした。無敗の(23勝17KO)挑戦者です。
4ラウンドに(1分15秒)挑戦者の左を喰い、そこから持ち直せず2分28秒にタオル投入でTKO負けとなります。
再戦に臨んだ山中選手ですが、体重超過のネリに2ラウンド(1分3秒)KO負けで雪辱ならず。ネリは前日の軽量で2.3キロ体重オーバーしており、
2時間の猶予が与えられ、2時間後の最軽量でも1.3キロのオーバーで規定体重を作れず、王座をはく奪されています。確信犯的な体重オーバーに批判を浴びました。
そして、山中選手は試合後に引退を表明しています。
山中選手は強いパンチを打つコツについて「軸足(左足)をしっかり使う」と述べていました。
12連続防衛の内8KO、ほぼすべてのダウンを左で奪っています。
一発のパンチもそうですが、当て方のうまい選手だったように思います。
1度、大和心(しん)トレーナーが、山中選手専用のミットを公開していましたが、相手の顎に当てると想定されている部分だけ汚れていました。
そこを狙い撃つ練習を何度も積んだ証拠なのでしょう。
日本2位の防衛記録や、モレノといった強豪に勝っているところを評価しました。

第3位 ファイティング原田

ファイティング原田(生年月日: 1943年4月5日)
ファイティング原田選手は世界フライ級、WBA・WBC世界バンタム級タイトルを獲得して、日本人として初めて2階級制覇を達成した人です。
「心臓が2つあるのではないか」と言われるほどの、無尽蔵のスタミナでラッシュするのが得意で「狂った風車」と呼ばれていました。
14歳でボクシングを始めた原田選手は、17歳でライセンスを獲得し、プロデビュー戦は4ラウンドTKO勝ちで飾っています。その後、今では世界王者への登竜門といわれている新人王戦に出場します。
順調に勝ち上がり、準決勝では同門の齋藤清作(せいさく)選手と当たりますが、その時は齋藤選手が負傷という形で辞退しています。
齋藤選手は後に、コメディアンとなる「タコ八郎さん」です。
決勝に駒を進めた原田選手の相手は、後のWBA、WBC世界フライ級王者海老原博幸選手です。原田選手は2度のダウンを奪い判定勝ちで新人王に輝いています。
デビュー以来25連勝した後、代役で世界挑戦の機会を得ます。王者はタイのポーン・キングピッチです。長身の王者はこれが4度目の防衛戦でした。
原田選手は1ラウンドから、果敢に攻めまくります。11ラウンド(2分59秒)には猛然とラッシュを仕掛けダウンを奪い、そのままカウントアウトとなり、見事世界タイトルを奪取します。
弱冠19歳での偉業、日本人2人目の世界王者となりました。
初防衛戦では敵地タイでポーンと再戦し、8ラウンド終了間際にダウンを奪いますが2-0の判定で敗れます。
原田選手はこの時の試合は「今でも負けたとは思ってない」と語り。「リングに上がるまでに(人が多すぎて)30分くらいかかった」と敵地での苦労を語っていました。
成長期の身体はドンドン大きくなり、減量も過酷を極めたらしく、「トイレの水でもいいから飲みたかった」と語っています。
減量苦でバンタム級に上げた原田選手は、何試合かバンタム級で戦った後、世界タイトルに挑戦します。相手は黄金のバンタムといわれる、エデル・ジョフレです。
ジョフレはここまで8連続KO防衛中の王者で、プロ、アマ通じて1度も負けたことがありません。
しかし原田選手は臆することなく、ゴングと同時にリング中央まで走っていき、ラッシュを開始します。
4ラウンド(2分すぎ)には渾身の右アッパーをヒットさせ、無敵の王者をグラつかせます。さらにラッシュを続け王者をロープに釘づけにします。
続く5ラウンド、前のラウンドで1分以上ラッシュし続けたにもかかわらず、原田選手は再びリング中央まで走っていき手を出し続けます。
そして15回判定勝ちで、生涯無敗だった王者に初黒星を付けたのです。試合終了後に相手や相手のセコンドにお辞儀をしていたのが印象的でしたが、あれほどの死闘を戦った後とは思えないほどケロッとしていました。
まさに怪物的なスタミナとタフさですね。原田選手は後に「ジョフレも同じ人間、勝てない事はないと思っていた」と語っています。
このタイトルの2度目の防衛戦ではジョフレと立場を入れ変えての再戦となりましたが、原田選手は再び判定で勝利を収めます。
前回よりさらに明白な勝利でした。
この時のテレビ放送された試合は、日本のテレビ史上、全局通じての視聴率歴代5位となる63.7%を記録しています。
ちなみにエデル・ジョフレは72勝50KO2敗4分けで引退しており、生涯を通じて原田選手にしか負けていません。引退後何年かして、原田選手はジョフレと再会した際に
「エキシビジョン・マッチでいいから、もう一回やらないか?」と言われたそうです。唯一勝てなかった原田選手に借りを返したかったのでしょう。
バンタム級王座を4度防衛後、原田選手はフェザー級王座に挑戦します。相手はオーストラリアのジョニー・ファメションでした。王者の地元シドニーに乗り込んで行っての挑戦でした。
原田選手は2ラウンド(58秒)に先制のダウンを奪い、11ラウンド(1分30秒)、14ラウンド(2分50秒)と計3度のダウンを奪うも、判定負けしてしまいます。
この判定は議論を呼び、翌日の地元の新聞では、この判定を「オーストラリアの恥」「原田は判定を盗まれた」と1面で報じました。
東京で再戦を迎え、原田選手は14ラウンド(1分9秒)KO負けを喫し、引退を表明しました。
原田選手の凄い所は、なんといっても当時階級が11階級しかなく(現在は17)WBAの1団体しかなかった頃に戦っていたことです。(現在は4団体)
当時は1階級に1人の王者しかいませんでした。今で言ったら4団体を統一してるに等しい偉業です。短絡的すぎるかもしれませんが、さらにもしファメションに勝っていれば、実質5階級制覇と同じことです。

そして、黄金のバンタムといわれたジョフレに2度勝ったことも素晴らしい快挙に思います。
原田さんは引退後、殿堂入りしました。日本人として初の快挙です。
入場してリングに上がる際に、いつも笑顔なのが印象的でした。「僕はリングに上がるのが大好きだったから」と語っていました。
現在、世界的な建築家で知られる安藤忠雄さんは、かつてボクサーを志していたことがあったらしいですが「原田さんの練習風景を見てあきらめた」と語っていたことがあります。
それが、その練習があまりに凄まじかったからでしょう。
練習量に裏打ちされた自信が、リングに上がる楽しさに繋がっていたのかもしれません。

第2位 具志堅用高

具志堅用高(生年月日: 1955年6月26日)
具志堅さんは元WBA世界ライトフライ級王者で、同タイトルを13度防衛した名チャンピオンです。
バランスの良い下半身から回転の速い連打を繰り出し、対戦相手を倒してきました。
ダウンした相手に対しても、パンチを打ち続ける闘争本能の塊のようなボクサーでしたが、現役時代からリング外では面白いコメントを連発して人気者でした。
ボクシングを始めたのは沖縄の名門興南高校入学時。インターハイで優勝するなどアマチュア時代から目立った選手でした。
拓殖大学へのボクシング推薦入学が決まっていましたが、上京した際に協栄ジムがスカウトしてプロデビューさせたとのエピソードがあります。
プロデビュー戦は、後に日本フライ級王者となる、牧公一選手を相手に判定勝ち。続く2戦目も牧選手と戦い、判定勝ちを収めていますが、パワー不足を指摘されていました。
そんな具志堅さんに幸運が訪れます。モスキート級とフライ級の間にJrフライ級(現ライトフライ級)が新設されたのです。
まさに、具志堅さんのためにあるような階級でした。そこから具志堅さんは6連勝5KOを記録し、当時では日本最速となる9戦目で世界挑戦します。
王者ファン・グスマンは21勝18KOのうち1ラウンドKOが11という、とてつもないハードパンチャーでした。
しかし、具志堅さんは1ラウンド目から攻め、2ラウンド(1分28秒)会心の左ストレートをヒットさせ、リング外に押し出すほど強烈なダウンを奪います(1分32秒)
このラウンドは計3度のダウンを奪い、好調なスタートとなりました。4ラウンド(2分)にもダウンを追加し、7ラウンド(32秒)KO勝ちで見事に世界を奪取します。
このタイトルを13度防衛することになりますが、初防衛戦では苦戦を強いられています。
元王者のハイメ・リオス(パナマ)の変則的な動きと、柔らかい状態を生かしたボディーワークにリズムを掴めず、3ラウンド(29秒)右のオーバーハンドをもらい、ダウンを喫します。
そして、目を腫らしながら戦い2-1の判定で辛勝しています。
2度目の防衛戦も判定でしたが(対リゴベルト・マルカノ(ベネズエラ))3度目の防衛戦から7連続KO防衛を果たします。
3度目モンハム・マハチャイ(タイ)に4ラウンド、左ストレートからの右アッパー一発でKO。(2分7秒)
4度目アナセト・バルガス(フィリピン)に11ラウンド50秒、1分54秒と連打で2度のスタンディングダウンを奪い、14ラウンド(23秒)TKO勝ち。
そして5度目は初防衛戦で苦戦したリオスとの再戦となり、7ラウンド(1分43秒)にダウンを奪い、13ラウンド(2分59秒)レフリーストップによるTKO勝ちを収めています。
6度目鄭相一(チョン・サンイル)韓国に5ラウンド22秒KO勝ち。
7度目リゴベルト・マルカノ(ベネズエラ)に7ラウンド(36秒)KO勝ち。
8度目アルフォンソ・ロペス(パナマ)に7ラウンド(2分33秒)右フックのカウンター一発でKO勝ち。
当時では最多となるKO防衛記録を樹立します。
その後も防衛を続ける具志堅さんですが、12度目の防衛戦で難敵を迎えます。チリのマルティン・バルガスです。58勝41KO5敗3分けのレコードを持ち、試合前に何枚ものハムを食べたり、冬なのにタンクトップで計量の場に現れたりと破天荒な選手です。
具志堅さんは立ち上がりこそ慎重だったものの、5ラウンド(2分55秒)にダウンを奪い、8ラウンドにも(56秒、1分22秒、)ダウンを追加し、1分42秒KO勝ちで12度目の防衛を飾っています。
この時点で同階級の連続防衛記録世界最多となります(当時)。具志堅さんはこの試合後「いますぐ引退してもいい」と語っていましたが、13度目の防衛戦のリングにも上がっています。
メキシコのペドロ・フローレスは全く無名の選手でしたが、具志堅さんは苦戦の末15回判定勝ちで13度目の防衛に成功しています。
そしてフローレスとの再戦では8ラウンド(2分42秒)にダウン。12ラウンド(1分16秒)にも連打で2度目のダウンを喫してしまい、立ち上がりますがロープ際に釘づけにされ1分42秒タオル投入によるTKO負けを喫してしまいます。
具志堅さんは、後に敗因を「試合前にアイスを食べれなかったから」と語っています。
これは今でいうルーティンのようなもので、具志堅さんは試合前に必ずアイスを食べていたそうですが、この時は軽量に会長が来て、食べさせてもらえなかったらしいです。
なんとも具志堅さんらしい言い分(いいぶん)ですね。
具志堅さんはなんといっても13回の防衛記録、さらに対戦相手に元王者や、後に王者になる選手もいたこと、そして、初戦に苦戦した相手を再戦でしっかり倒しているとこなどが素晴らしいと思います。
もしかしたらモチベーションの低下から、敗れてしまったのかもしれません。
実力的にはもっと防衛を続けられたのではないかと私は思います。

第1位 井上尚弥

井上尚弥(生年月日: 1993年4月10日)
井上選手は当チャンネルの「井上尚弥ドキュメント」動画でも紹介した選手です。
元WBC世界ライトフライ級、WBO世界スーパーフライ級王者で、現在はWBA・IBFバンタム級のスーパー王者として君臨している(2021年4月時点)現役の世界チャンピオンで、「日本ボクシング界の最高傑作」「モンスター」と呼ばれています。
アマチュアボクサーだった父信吾さんに影響を受け、6歳でボクシングを始め、小学校6年時からスパーリング大会などに出場しています。
高校進学後はボクシング部に入り、選抜、インターハイ、国体を含む7冠を達成しています。また、国際大会でもインドネシア大統領杯で金メダル、世界選手権出場しています。
プロテストの実技では、現役の日本ライトフライ級王者である黒田雅之を相手に行われましたが、内容的には圧勝。
見事に合格し、異例のA級デビューを果たしています。

デビュー前のスパーリングでは、当時日本ランカーで、のちのWBA&IBFの世界ライトフライ級統一王者である田口良一選手を圧倒。途中でストップがかかるほどでした。
また、当時WBA世界ミニマム級王者で、のちの3階級王者である八重樫東選手もスパーリングで倒すなど、デビュー前から伝説を残しており、井上選手との対戦を避ける選手が多く中々試合が決まりませんでした。

デビュー戦は東洋7位のクリソン・オマヤオ(フィリピン)相手に行われ、4ラウンド(2分4秒)KO勝ちで飾っています。
日本タイ記録となる4戦目で日本タイトルに挑戦します。王者は、スパーリングでも対戦した田口良一選手です。試合は白熱した展開になりますが、井上選手が判定勝ちを収めています。
そして当時では日本最速となる6戦目で、メキシコのアドリアン・ヘルナンデスの持つWBC世界ライトフライ級タイトルに挑戦。
途中足がつるアクシデントに見舞われますが、井上選手は終始王者を圧倒し、6ラウンド、左右の連打から右でダウンを奪い2分54秒TKO勝ちで初のタイトルを奪取します。
そのタイトルを1度防衛後(対サマートレック・ゴーキャットジム。11R1分8秒TKO勝ち)一気に2階級上げて、アルゼンチンの英雄的存在のWBO世界スーパーフライ級王者オマール・ナルバエスに挑戦します。
ナルバエスはフライ級王座を16度防衛、そして2階級目のスーパーフライ級タイトルも11連続防衛中のスター選手で
プロ、アマ通じてダウン経験はなく、プロ入り後、唯一の黒星は5階級制覇のノニト・ドネアに判定負けしたものです。そんな選手を相手に井上選手は1ラウンド開始わずか30秒でダウンを奪います。
力強い右を打ち込み、王者をキャンバスに沈めます。その30秒後には2度目のダウンを奪い、観衆の度肝を抜きます。さらに続く第2ラウンド(1分40秒)バックステップからの左フックを合わせ、ダウンを追加し、最後はボディーブローでチャンピオンを倒し(3分1秒)2階級制覇を達成します。
試合後ナルバエス陣営は、井上選手がグローブに何か細工をしているのではないか?とのクレームを付けますが、井上選手はその場でグローブを取り何もないことを証明すると「素晴らしいニューチャンピオンだ」と言って祝福しました。
井上選手はこのタイトルを7度防衛(6KO)しています。
そして、バンタム級に階級を上げ、3階級制覇を狙います。王者はWBA世界バンタム級チャンピオン・ジェイミー・マクドネル(英国)で10年間無敗の選手です。
しかし井上選手は開始わずか20秒、左フックでグラつかせ、ボディー打ちでダウンを奪うと、立ち上がってきた王者に連打を浴びせ1分52秒でKO勝ちして3階級目のタイトルを手にしています。
そしてWBSSバンタム級トーナメントに出場することを明らかにしています。
現役の王者たちが一堂に会しトーナメント形式で優勝を争う、ボクシング界のワールドカップともいえる大会です。
1回戦は元WBAスーパー王者のファン・カルロス・パヤノ(ドミニカ共和国)が相手でしたが。わずか70秒で粉砕します。
井上選手のワンツーをまともに浴びたパヤノは、両足をそろえてそのままキャンバスに沈んでいきました。
続く2回戦は、事実上の決勝戦といわれました。対戦相手のエマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ)はIBFバンタム級王者で19戦無敗12KO。
オッズでは井上選手に次ぐ2位でした。
しかし第2ラウンド(30秒)井上選手は左フックでダウンを奪い、さらに48秒ボディーブローでダウンを追加。相手の戦意を奪い、1分19秒TKO勝ちしています。
決勝はボクシング界のレジェンド、5階級制覇のノニト・ドネアが相手でした。
初回から壮絶な打ち合いとなり、2ラウンド(2分10秒)ドネアの左フックで目をカットするアクシデントもありましたが、気持ちの強さと、精神力を見せ、11ラウンド(1分8秒)左のボディーでダウンを奪い、判定勝ちを収め、WBSS優勝を飾っています。
この試合は2019年度の年間最高試合に選ばれ、井上選手はボクシング界で最も権威があるとされるRING誌で、パウンドフォーパウンド3位に選出されています。
この1年後には聖地ラスベガスでジェイソン・マロニー(オーストラリア)相手に防衛戦を行い、減量苦で脚がつりながらも6ラウンド(28秒)相手のダブルの左ジャブの2発目に左フックを合わせて、ダウンを奪います。
そして、7ラウンド(2分50秒)カウンターの右でKOしてラスベガスデビューを飾っています。
井上選手は攻防兼備の万能型の選手です。パンチ力、バランス、相手の癖を試合中に読み取る能力、カウンター、スピード、スタミナ、等、素晴らしい所を挙げればきりがないほどです。
また、相手を圧倒する勝利が多く、短いラウンドでのKOや、ダウン経験のない選手にKO勝利したりなど、その勝ち方も評価しました。
さらに井上選手は子供の頃に父信吾トレーナーから教わった基本のステップを、世界王者になった今でも毎日続けてるといいます。
もしかすると、井上選手の1番の才能はその努力を継続する力なのかもしれません。

あとがき

このランキングは、これまで作成したどんなランキングより難しかったです。なぜなら時代や、階級の違うボクサーを比べるのは、物理的に不可能だからです。

特に時代には、どうしても越えられない壁があります。それはボクシングは時代と共に進化してきたという事実です。
シュガー・レイ・ロビンソンがフットワークという革命をボクシング界に持ち込み、コンビネーションも時代と共に進化をし続けています。
昔のボクサー達は、フロイド・メイウェザーや、オスカー・デラホーヤのような速射砲のコンビネーションは打てませんでした。

ボクシング評論家のジョー・小泉氏はパウンドフォーパウンドについて「ファンの遊びとしては面白い」と語っています。
しかし、逆に、リング誌でPFPにランクインすることはボクサーにとって、一種のステータスとなっているのも事実です。
物理的に不可能なことですから、遊び的な事なのかもしれませんが、私はこのランキングを通じて、もっとたくさんの方々にボクシングを知ってもらいたいと思い作成しました。

オールタイムPFPランキングによって、昔のボクサー等も知っていただけると、それぞれの選手たちが、様々な人生を背負ってボクシングをしている、ということが伝わるかなと思いました。
ボクシングは、スポーツでも格闘技でもなく、1つの生き方なのだと知っていただけると幸いです。

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