ボクシング無敗の最強王者が敗れた日1970s~1990s

今回は1970年代~1990年代の無敗の王者が負けた試合をご紹介します。
2000年以降の”無敗の王者が負けた試合”は既に投稿済みですので、ぜひ合わせてご覧いただけると嬉しいです。

ボクシングの歴史上、無敗のまま引退した世界チャンピオンというのは数えるほどしかいません。49勝無敗で引退したヘビー級チャンピオン、ロッキー・マルシアノ。46勝無敗のジョー・カルザゲ。34戦全勝のスベン・オットケ。マルシアノの連勝記録を破ったのは50連勝無敗のフロイド・メイウェザー。
引き分けも入れるなら、51勝1分けのリカルド・ロペス等も敗北を知らぬまま引退しています。

しかし、このような例外選手達を除けば、戦い続けるかぎり最強のチャンピオンでも研究され、敗れる日が来ます。
ある時は番狂わせで敗れ、ある時はチャンピオン同士の戦いで敗れ、ある時は衰えによって敗れた無敗の王者たちは数多く存在します。
そこで本日は、無敗だったチャンピオンたちの初黒星にフォーカスしてみたいと思います。
尚、全勝ではなく、引き分け込みの無敗の王者の負けた試合となります。
無敵のチャンピオンたちは、いったいどのようにして初めての敗北を味わったのでしょうか。

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目次

ボクシング無敗の最強王者が敗れた日1970s~1990s

シュガー・レイ・レナードvsロベルト・デュランⅠ

WBC世界ウェルター級タイトルマッチ
1980年6月

この試合は、未だに中量級最強と言われている2人の歴史的な一戦でした。
”石の拳”という異名を持つデュランは、パナマ人のボクサーでライト級では無類の強さを誇っていました。
1972年に無敗のまま元統一王者のケン・ブキャナンからWBAタイトルを獲得すると、そのタイトルを12度防衛。
その間にも、ノンタイトル戦を数多くこなしており、唯一エステバン・デ・ヘススに判定負けをしていますが、12回KOで雪辱を果たすとともにWBA・WBCの王座を統一しています。
防衛の中には、あのガッツ石松選手をTKOで下した試合も含まれています。72勝1敗と驚異の戦績です。

一方レナードはアメリカ人ボクサーで、アマチュアで145勝5敗の戦績を残し、モントリオールオリンピックで金メダルを獲得しプロ入りした選手です。
モハメド・アリが引退したらボクシング界は終わりだ、と言われていた時期に、彗星のごとく現れたスター選手でした。
そして、そのモハメド・アリのトレーナーを務めていたアンジェロ・ダンディーが専属マッチメーカー兼マネージャーとして就くなど、話題を呼び、期待もされていました。

ウェルター級史上最速と言われるスピードスターで、無敗のままWBC世界ウェルター級タイトルを獲得。
そのタイトルを一度防衛し、27勝18KO無敗のままデュランとの一戦を迎えます。
一方デュランは、ライト級から一気に2階級上げての挑戦に、レナードの有利の声が多く聞かれるマッチアップでした。

この試合はデュランの母国パナマの大統領も注目していたほどのビッグマッチで、会場は46000人もの観衆で埋め尽くされました。

試合が始まると、デュランが距離を詰めレナードをロープ際に追い込みます。
トレーナーのアンジェロ・ダンディは、アウトボクシングでロープを背にしないことを指示していましたが、レナードは打ち合いに応じます。
後に「逃げたくなかった」と語っていたレナードですが、この闘争心が無敗王者レナードの歯車を狂わせることになるのでした。
デュランは2Rに左でレナードをぐらつかせると、4Rには右で大きく後退させます。
時折、凄まじいハンドスピードのコンビネーションで反撃するレナード。
最終ラウンドになっても手を出し続ける2人に、観客は惜しみない拍手を送ります。
そして、15R戦い抜いたこの試合は判定へ。
試合終了直後、勝利を確信したデュランはガッツポーズで歓喜し、同じように勝ちをアピールするレナードに怒ります。

判定は3-0でデュラン。
パナマの石の拳は見事快挙を成し遂げました。これに喜んだパナマの大統領は、デュランを大統領専用機でパナマに送り、この試合の日をパナマの祝日に制定するほどでした。

エリート街道を走ってきたレナードはさぞ屈辱だったでしょう。
約5ヶ月後に再戦がセットアップされますが、その試合ではレナードが冷静にアウトボクシングを徹底し、
8Rデュランの「ノーマス(もういい)」で、デュランの棄権負けで幕を閉じたのでした。

フリオ・セサール・チャベスvsフランキー・ランドール

WBC世界スーパーライト級タイトルマッチ

この試合は1994年に行われた試合です。チャベスは今でもメキシカン史上最高のボクサーと言われています。ルーベン・オリバレス、カルロス・サラテ、サルバドール・サンチェス、カネロ・アルバレスらをおさえてメキシコ史上最強の称号です。
10人兄弟の4人目として生まれ、兄も、弟たちもボクサーというボクシング一家に育ち、チャベス自身も16歳でアマチュアデビューを飾ります。
17歳でプロデビューしてからは連戦連勝、なんと41連勝37KOを記録し、世界タイトル戦にこぎつけます。
チャベスが22歳の時でした。相手はマリオ・マルチネス。28勝26KO1敗1分けのレコードを持つ強豪でしたが、チャベスは8ラウンドTKO勝ちで初の世界タイトルを手にしました。
ちなみに余談になりますが、この試合は後の人気リングアナウンサー、ジミーレノン・ジュニアが初めてコールした世界タイトルマッチでした。

チャベスはこのタイトルを9度防衛後、ライト級に階級を上げます。
26勝22KOの強打者WBAライト級チャンピオン、エドウィン・ロサリオに挑戦します、中量級のビッグマッチとして注目されますが、チャベスは全てにおいてロサリオを上回り、ロサリオを滅多打ちにして、11ラウンドTKO勝ちして2階級目を手に入れます。

この勝利でチャベスはスーパースターの地位を手に入れます。
ライト級タイトルを統一後、3階級目を狙ってWBCスーパーライト級タイトルに挑戦します。時のチャンピオンはあのフロイド・メイウェザーの叔父、ロジャー・メイウェザーです。メイウェザーは過去6試合メキシカンを打ち倒してきたことから、メキシカンキラーと呼ばれていました。
しかしチャベスはこの日も強さを見せつけ、10ラウンド終了時、メイウェザーがギブアップして、チャベスのTKO勝ちとなります。
このタイトルを11度防衛しますが、その中にはIBF王者メルドリック・テーラーとの統一戦で劇的な最終回ラスト2秒で逆転KO勝ちした試合もあり、チャベスがスーパースターの星の下に生まれてきたことを見せつけます。

デビューから87連勝75KOを記録したチャベスは、4階級目を狙ってWBCウェルター級チャンピオンのパーネル・ウィテカーに挑戦しますが、変則サウスポーのウィテカーに手を焼き引き分けに終わります。チャベスはこの試合で、チャンピオンの倍近い約6億円を手にしています。
スーパーライト級のタイトルを返上せずにウィテカーへ挑戦したため、チャベスは再びスーパーライト級に戻り、防衛を続けます。
そして13度目の防衛戦で挑戦してきたのが、ランキング1位の指名挑戦者フランキー・ランドールでした。ランドールは48勝39KO2敗1分けのレコードを持つ選手ですが、52戦目での初の世界挑戦で、オッズでは20-1で圧倒的にチャベス有利です。

しかしランドールは身長、リーチの長さをいかして巧妙なアウトボクシングを披露します。1ラウンド目からサイドへサイドへ動き、チャベスをかく乱します。予想外の大苦戦を強いられたチャベスは、イライラを募らせていきます。
そして11ラウンド、チャベスのローブローでレフェリーがタイムを取り、減点を与えます。
レフェリーがチャベスの手を取りジャッジ3人に減点を言い渡そうとすると、チャベスはその手を払いのけます、イライラが募っている感じが見られます。

再開後メキシコのファンにとって信じられない場面が訪れます。
チャベスの両足が揃ったところに右のショートがクリーンヒット、あのチャベスがダウンします。
不倒の男、鉄の顎を持つ男チャベスがダウンするなど考えられません。
なんとか立ち上がりゴングに逃げ込んだチャベスですが、接戦の中でのこのダウンは手痛いものです。
そして最終回、打ち合いの中試合が終了、ゴングが鳴るとランドールは勝利を確信してガッツポーズ、そして判定は2-1でランドールの勝ちとアナウンスされ、歓喜のランドール陣営、その横で呆然と立ちすくむチャベスの表情がなんとも悲しげでした。

ジョージ・フォアマンvsモハメド・アリ

WBA・WBC世界統一ヘビー級タイトルマッチ
1974年10月

ザイール共和国のキンシャサで行われたこの試合は”キンシャサの奇跡”と言われ、当チャンネルの”感動・泣ける試合ランキング”でも紹介した、歴史的な名試合と言われている試合です。

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モハメド・アリは、ボクシングに詳しくない方でも一度はその名を聞いたことのあるレジェンドボクサーです。
ローマオリンピックで金メダルを獲得。
今まで力だけで勝負していたヘビー級にスピード革命をもたらし、当時不利と言われていたソニー・リストンからKOで大金星の王座獲得を成し遂げます。
試合以外でも派手なパフォーマンスやトラッシュトークで盛り上げるなど、スターと呼ぶに相応しい選手でした。
無敗のまま防衛を続けていたアリでしたが、当時激化していたベトナム戦争への兵役を拒否し、世界タイトルを剥奪されます。
そして、アメリカ最高裁と裁判になるなどして、3年7か月ものブランクを作ります。復帰するも、タイトルマッチでは
ジョー・フレージャーに初黒星を喫し、ケン・ノートンにも負け、無敗の絶対王者ではなくなっていました。

対してジョージ・フォアマンはアリと同じくオリンピック金メダルを獲得し、プロ戦績は驚異の40戦40勝37KO。
象をも倒すと言われた、剛腕を持っています。
当時アリに黒星を付けたジョー・フレイジャー、ケン・ノートンを2Rで粉砕している25歳無敗の若き王者です。
ファイトスタイルも反対な2人、勢いに乗る若手とベテラン。
当時30歳を過ぎても現役を続けているボクサーは、ほとんどいませんでした。
誰もが、32歳のアリよりも、無敗の王者フォアマンの勝利を予想していたのです。

試合が始まると、パワーパンチを打ち込んでくるフォアマンに対して、アリがロープにもたれかかりパンチを受けたり、クリンチを続けます。
一見、防戦一方に見えそうな構図ですが、これはアリがフォアマンを打たせ続け、疲れさせる作戦でした。
後に、アリ自身が”ロープアドープ”と名付けたこの戦法は、この試合を象徴する伝説的な作戦となりました。

試合中も「打ってこいよ」と、挑発するアリ。フォアマンは力の限りパワーパンチを打ち続けます。

しかし、6Rを過ぎた辺りでフォアマンが失速。明らかに疲れています。
そして8R、打ち疲れてクタクタになったフォアマンの隙きを見て、アリが一気に攻勢に転じます。

ロープ際で体を入れ替えると、一気にラッシュをかけるアリ。
アリの右ストレートがフォアマンの顎をとらえると、フォアマンはよろよろと崩れ落ちます。

そのままフォアマンは10カウントを聞き、アリのKO勝利、世界王者返り咲きとなりました。
この光景に会場はもちろん、中継を観ていた世界中のファンは驚き、感動したことでしょう。

「アリはもう終わった選手」などと批判されながらも、最強の王者相手に堂々の勝利を収めたアリは絶賛されました。
アリは後に
「自分が負けるということは、虐げられているすべての人々が負けるということだ」
と語ったことがあります。
アリは黒人差別と闘い、黒人の代表と自負していたのかもしれません。
そしてアリは20世紀最高のスポーツヒーローにも選出されました。

一方のフォアマンは、3年後に引退、キリスト教の牧師に転身します。
後に、アリに負けた時のことを「自信や、自尊心は破壊され、人間として敗北したと感じていた。
人生で最も辛い出来事だった」と語っています。
しかし、フォアマンもアリと同じようにボクサーに復帰し、45歳最年長記録でタイトルを奪還するのです。
(この物語も当チャンネルの”感動・泣ける試合ランキング”でも紹介しておりますので、是非見てみてください。)

コンスタンチン・チューvsビンセント・フィリップス

IBFスーパーライト級タイトルマッチ

ソビエト連邦が崩壊した後、エリートアマ達がこぞってプロ入りしてきました。1991年の事です。日本からもユーリ、アルバチャコフやオルズベック・ナザロフらがプロ入りし、その強さを日本のファンに見せつけてくれました。同じ頃オーストラリアからプロ入りして、破竹の快進撃を繰り広げていたのがチューでした。
名前の発音が言語によって全く変わってしまう選手ですが、ここではコンスタンチン・チューで統一させていただいております。
アマチュアでは世界選手権金メダル、銅メダルを獲得し、ヨーロッパ選手権では2回優勝を飾り、オーストラリアからデビューすると、13戦全勝10KOのレコードをひっさげ世界挑戦します。
チャンピオンはジェイク・ロドリゲス、これが3度目の防衛戦でした。

チューは空手の構えのように左手を大きく前に出して、ジリジリと相手にプレッシャーをかけていく独特のスタイルを持っています、この日もそのスタイルでチャンピオンに迫ります。
途中バッティングで流血しますが、チャンピオンを計4度ダウンさせ見事タイトルを獲得します。

五度目の防衛戦でレオナルド・マスに開始わずか40秒でダウンを奪い、のこり15秒のところで再びダウンを奪いますが、マスが立ち上がりクリンチ。レフェリーがそのクリンチを引きはがそうとしたところに、チューの左フックがヒットしマスが再びダウン。
続行不可能となりテクニカルドローとなります。思わぬところで全勝記録が途絶えたチューですが、まだ無敗を誇っています。

そしてむかえたのが6度目の防衛戦、相手はビンセント・フィリップスでした。
フィリップスはあのロイ・ジョーンズ・ジュニアと同じフロリダ州ペンサコーラ出身の黒人ボクサーです。
アマチュアで約100戦のキャリアがあり、全米選手権で優勝もしていますが、そこまで注目されていた選手ではありませんでした。薬物中毒を克服したり、私生活で色々とあったなか、33勝22KO1敗のレコードで世界初挑戦しますが、時のWBAウェルター級王者アイク・クォーティーに滅多打ちにされ3回KO負けを喫しています。

たしかにクォーティーは中量級ウォーズの一角を担う存在感のあるチャンピオンでしたので、この負けはしょうがないかもしれません。しかし、それはチューも一緒です。この頃チューはすでにデラホーヤ、トリニダードらと並んで評価されていた選手でした。

そんな王者を相手にフィリップスは1ラウンドから積極的に攻めます。1ラウンド終了間際には右クロスをヒットさせます。
しかし歴戦の王者はいつものようにジリジリとプレッシャーをかけ、パワーパンチを打ち込んでいきます。
この日のチューは決して不調には見えませんでした。効果的にパンチを当て、フィリップスの右目は早い回から腫れてきます。
しかしフィリップスは果敢にパンチを当てていきます。そして7ラウンド、右クロスがヒットし、チューからダウンを奪います。
つづく8回9回も積極的に攻め、ポイントを奪います。
むかえた10ラウンド、右を再びヒットさせ、そこから一気にフィニッシュして、無敵の王者をストップに追い込みました。
ウェルター級に上げてデラホーヤ、トリニダードらとのビッグマッチが待望されていたチューが敗れたのです。
この試合はリングマガジンのアップセット・オブザイヤーに選出されています。
その後フィリップスは3度の防衛に成功しますが、4度目の防衛戦で伏兵テーロン・ミレットに敗れてあっさりと王座陥落しています。

マイク・タイソンvsジェームス・ダグラス

統一世界ヘビー級タイトルマッチ
この試合はオッズの上では史上最大の番狂わせと呼ばれている試合です。43-1ともいわれていたオッズがひっくり返ったこの試合、いったいどのような試合だったのでしょうか。

タイソンはもはや説明の必要もないほど、色々ないみで有名なボクサーです。アマチュアで48勝6敗の戦績を残してプロ入り後、いきなり19連続KO勝ちを記録し話題を呼びます。
恩師カス・ダマト直伝のピーカブースタイルと圧倒的なパンチ力で勝ち上がっていきます。

そして1986年11月、無敗のまま世界初挑戦の時をむかえます。相手はWBCヘビー級王者トレバ―・バービックでした。
この試合をむかえるころにはタイソンはすでに世界中から注目されている選手になっており、オッズでは圧倒有利でした、チャンピオンが勝てば奇跡と言われていたほどです。
試合は大方の予想通り、わずか2ラウンドで終わります。2ラウンドの開始早々から仕掛けたタイソンの強打を浴びてチャンピオンがダウン。
すぐに立ち上がり試合は再開されますが、チャンピオンのダメージは明らかです。クリンチやホールディングで回復を図る王者。
しかし、再びタイソンの強打が爆発。バービックは立ち上がろうとしますが、ダメージで足がもつれて立てません。そしてレフェリーが試合を止め、タイソンのKO勝ちが宣告されました。
あまり喜ぶそぶりを見せずにタイソンは前チャンピオンとなったバービックを気遣っていました。

WBCタイトルを手に入れたタイソンは、この頃ドンキングが主催していたヘビー級タイトル統一トーナメントに参戦します。WBC,WBA,IBFの3人の王者たちによる勝ち抜き戦です。

そのため初防衛戦がいきなりWBA王者ジェームス・スミスとの統一戦となりました。スミスは19勝14KO5敗と世界王者としては平凡なレコードの持ち主ですが、身長が193センチもあり、体格で勝るチャンピオンです。
しかしタイソンは序盤から攻めます、身長では10センチ以上劣るタイソンですが、スミスの長い距離を一瞬にして埋めてしまうダッシュ力とスピードがあります。試合は済む巣の消極的なクリンチ策によってボンセントなりますが、判定でタイソンが圧勝します。

WBAタイトルをコレクションにしたタイソンの次なるターゲットはIBF王者トニー・タッカーです。
タッカーは34勝29KO1無効試合の戦績を誇る王者で196センチの長身とリーチはなんと207センチです。
タイソンより20センチ以上長いリーチをいかし、タッカーは長い距離からパンチをヒットしていきます。
しかし序盤こそタッカーは上手く戦いますがタイソンのプレッシャーにおされ、段々とクリンチが増えてきます、結局タイソンが大差の判定勝ちで3冠統一に成功します。

モハメド・アリが成し遂げて以来の3団体の統一に成功したのです。

その後もタイソンの快進撃は続きます。19連続防衛の元王者ラリー・ホームズをむかえての防衛戦。
ホームズは約7年間で19度も世界タイトルを防衛したチャンピオンです。
まだタイソンが少年院にいたころから世界王者でした、元々はモハメド・アリのスパーリングパートナーとして実力を付けた選手ですが、自身の8度目の防衛戦ではアリと対戦しています。
試合前は「3ラウンドでKOする」とホームズが言えばアリは「お前は元は俺のスパーリングパートナーだぞ、主人に逆らうな」と言い合います。しかし試合は10ラウンド終了TKO勝ちでホームズが勝っています。
ホームズは1度引退していますが、事業でも成功し、実業家としての地位を築いています、そんな彼がタイソンを見て、「俺の方が強い」とその強さを証明するために挑戦してきたのです。

タイソンは「もう彼の時代じゃない」と強気のコメントをしていますが、その言葉通り、タイソンは初回から元王者を圧倒します。
そして4回右の強打でホームズがダウンします。
立ち上がりますが、タイソンは追撃弾を浴びせてあっけなく再びダウン、その後もタイソンは老雄を滅多打ちにして4ラウンドKO勝ちを収めています。

その年の3月にタイソンは初来日し、新設された東京ドームのこけら落としとして防衛戦を戦います。相手はトニー・タッブスでした。
東京ドームに51000人の観客を集めて行われました、リングサイドの席は10万円、モハメド・アリ、シュガー・レイ・レナードなど歴代の偉大なチャンピオン達が見にきており、日本からも長嶋茂雄さんや、三船敏郎さんらの姿も見えます。ガウンもタオルすら身に着けずに入場してくるタイソン。
この試合の条件としてタイソン側は「リングインしてから3分以内に試合を開始する」と要求していたと言われています、アップで温めた体を冷やしたくないのでしょうか、そのため国家の吹奏などのセレモニーは両選手の入場前に行われていました。
セレモニーや、元王者たちの紹介など、かなりの時間を費やして行われていましたが、試合はわずか2ラウンドで終わってしまいます。
2ラウンド残り15秒のところでタイソンの強打が爆発、タッブス陣営のセコンドがリング上に飛び込み試合終了となります。

帰国後タイソンは7度目の防衛戦としてマイケル・スピンクスをむかえます。
場所は東部のアトランティック・シティ、トランププラザです、後のアメリカ大統領のトランプ氏が誘致した試合でした。

スピンクスはモントリオール五輪で金メダルを獲得後プロ入り、ライトヘビー級タイトルを獲得後、10度の防衛を果たし、ヘビー級に転向、ラリー・ホームズからタイトルを奪い世界2階級制覇に成功しています。統一トーナメントへの参加を拒否したためタイトルを剥奪されていますので、無敗のままですが無冠になっています。31勝21KO無敗の素晴らしいレコードを持っています。
この試合は世界中が注目する試合となりますが、わずか91秒で終わります。
1分過ぎ、タイソンが左フックから右アッパーのボディーでダウンを奪います、立ち上がったところにふたたび右のショートを決めてタイソンのKO勝ちとなりました。この試合タイソンは29億円のファイトマネーを手にしています。

そしてタイソンは再び東京にやってきます。10度目の防衛戦のためです。
あるボクシング関係者の話ではタイソンは初来日の時とはまったくの別人だったそうです。

優等生で誰にでも子供のように純粋な笑顔をふりまいていた前回とは違い、どこか影が見受けられたそうです。
そしてタイソンのトレーナーであったケビン・ルーニーを解雇するなど、陣営を入れ替えていました、新しいトレーナーはアーロン・スノーウェルという黒人でしたが、トレーナーとしての実績は全く知られていませんでした。

そして元世界王者グレグ・ページとのスパーリング中にタイソンはダウンします。スリップ気味ではありましたが、翌日の新聞では一面で扱われていました。
来日から調子の上がらないタイソンは気分転換のためにプロモーターらと上野動物園に行ったりしてリラックスしたそうです。
対戦相手のジェームス・ダグラスは身長193センチ、体重は110キロの巨漢選手です、戦績は29勝19KO4敗1分け1無効試合で1度IBFヘビー級王座決定戦でトニー・タッカーに10回KO負けしています。並みの世界ランカーでこの試合でもタイソンの圧勝が予想されていました。

1ラウンドからダグラスは左ジャブを有効に使いタイソンの前進を阻みます。そしてタイソンが入ってくると右ストレートで追撃していきます。

3ラウンドまで見て「これはタイソン苦戦するな」と感じた方は多かったと思います。しかし負けはないと、みな思っていたのではないでしょうか。

ポイントを先行されたタイソンが追いかけるという形で試合は進んでいきます。
いつものタイソンなら相手がジャブを打ってきた瞬間に左にヘッドスリップして相手の懐に飛び込み、相手のパンチの引きより早く左右フックを叩き付けることができますが、この日のタイソンはそれをできません。
5ラウンドには左目が腫れはじめます。(19分)

試合が大きく動いたのは8ラウンドでした、残り30秒から猛ラッシュをかけるダグラスですが、その合間を縫って放ったタイソンの右アッパーがヒット、一瞬時間が止まったような間を経てダグラスの巨漢がキャンバスに沈みます。
カウント8で立ち上がったダグラスはゴングに救われます。34分
会場のファンもテレビで見ていた人たちもここでやっといつものタイソンになった、と感じたはずです、しかし9ラウンド、ダグラスは復調し再びペースを握ります。このラウンド2分過ぎからタイソンはロープに釘付けになりパンチを打ち込まれます。(37分25秒)
そしてむかえた第10ラウンド。ダグラスの攻勢が続き、1分過ぎに右アッパーをヒット、(40分28秒)そこからの連打でタイソンがダウン、何とかマウスピースを拾って立ち上がろうとするタイソンですが、ふらふらで足元が定まりません、そしてレフェリーに抱きかかえられ試合は終了します。

あの鉄人タイソンが敗れたのです。
試合後、専門家はこぞって敗因は何だったのか分析を始めました。
しかし技術的な事よりもタイソンの敗因はこの試合よりかなり前、スピンクス戦辺りから、タイソン王朝墜落の序曲は始まっていたのではないでしょうか。

詳しい解説は「マイクタイソンドキュメンタリー」を投稿予定すので、ぜひそちらをご覧ください。

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