世界を獲った苦労人ボクサー5選+1

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本日はボクシングで苦労に苦労を重ねて、やっと世界の頂点に立ったチャンピオン達5人、+苦労したけど最終的に世界に届かなかったボクサー1人をご紹介しいきます。

極論を言ってしまうと、「苦労してないボクサーなんていない!」と思います。

1日の食事が卵1つだったこともある、貧しい家庭に育った大場政夫選手。10キロの道のりを走って通勤していた輪島功一選手。そして海外を見れば、中南米の選手たちにとってボクシングは貧困から抜け出すための手段ですし、フィリピンの英雄マニーパッキャオのデビュー戦のファイトマネーは千円にも満たなかったといいます。

ハングリースポーツの代名詞といわれていたボクシング。しかし、そこにはお金だけではなく、拳で夢を掴むという心の渇望もあり、ボクサーの数だけドラマがあります。

今日はそんな中でも、特に私が印象に残っている苦労人王者たちを紹介いたします。

目次

世界を獲った苦労人ボクサー5選+1

ジェームス・ブラドック

1人目はアメリカのジェームス・ブラドックです。ボクシングファン以外の方でも、聞き覚えがある名前かもしれません。
彼の生涯はラッセル・クロウ主演の「シンデレラマン」というタイトルで映画化もされていてます。もちろんブラドックは実在のボクサーです。

1905年にアメリカでアイルランドからの移民の両親の元に、7人兄弟の1人として生まれたブラドック。
1923年にボクシングプロデビューしています。最初の3年間で44勝21KO2敗2分けのレコードを記録し、世界タイトルに挑戦しますが、時のチャンピオン、トミー・ラフランに判定負け。
その後は右拳の怪我なども響き、33試合の内、11勝20敗2分けと落ち込みます。

ブラドックは結婚して3人の子供がいましたが、1929年に世界を襲った大恐慌の影響を受け、一家は貧困に苦しみます。
電気代すら払えない月が続き、そのため彼は日雇い労働者となりますが、毎日仕事がもらえるわけではありません。毎日、労働希望者が集まる広場に出向き、決められた数の人間だけが仕事をもらえるのです。

さらにボクシングで痛めた右拳は使えず、左手だけで仕事をこなします。そのため、左のリードブローが劇的に強くなったというエピソードがあります。
映画のワンシーンにブラドックは息子が万引きをするところを見て、「俺たちはそんなことはしない」といって子供をしかるシーンがありますが、実物の彼も、政府からの手当てを受け取ることに屈辱を感じたりと、誇り高い人物であったことがうかがえます。

彼は苛酷な現実に対しても、嘆かず、怒らず、ひたすら耐えます。
彼は1934年に、ホープと称されていた選手コーン・グリフィンを下し、さらにのちの世界王者ジョン・ヘンリー・ルイスを下し、世界挑戦のチャンスを掴みます。

しかし、時の世界ヘビー級王者は、マックス・ベアー。ベアーは怪物王者で、ブラドックはオッズ10-1で不利とされていました。

しかし、彼は判定で見事ベアーを破り、世界の頂点に立ちました。大恐慌、貧困、怪我などに翻弄されながらも、家族を養ない、絶対王者を下した彼のボクサー人生は、まさに映画化されるにふさわしいものだったのでしょう。

花形進

2人目は花形進選手です。
花形選手の最終戦績は41勝7KO16敗8分けです。1963年にデビュー以来、日本タイトル戦までに約6年を費やしています。
デビューから30戦目までで、14勝8敗8分けとかなり平凡な戦績でした。しかし、そこから成長を見せ、6年目にスピーディー早瀬選手の持つ日本フライ級タイトルに挑戦し、判定勝ちして初のタイトルを獲得。そのタイトルを4度防衛しています。

初の世界挑戦は1969年11月、WBCフライ級タイトルマッチ。メキシコのチャンピオンに挑みますが、判定負け。
2度目の世界挑戦は1971年4月、WBCフライ級タイトルマッチ、フィリピンのエルビト・サラバリアに挑戦しますが、判定負け。

3度目の挑戦は翌年の3月。1度勝っている大場政夫選手のWBAフライ級王座に挑戦しますが、僅差の判定負け。
4度目の挑戦は、1973年10月、タイのチャチャイ・チオノイに挑戦しますが、またしても判定負けを喫して、世界タイトル戦を4連敗してしまいます。

5度目の挑戦は1年後のWBA世界フライ級タイトルマッチ。相手は再びタイのチャチャイです。計量で体重オーバーによって王座をはく奪されたチャチャイ。
花形選手は見事6ラウンドKO勝ちでタイトルを奪取。5度目の挑戦でようやくタイトルを取ったのでした。(映像みつけられなかったです)

デビュー当時から負けや、引き分けも多かった花形選手でしたが「続けていれば、いずれチャンスはあると思っていた」と、後に語っていました。
座右の銘は「継続は力」とも語っています。

昨今のボクサーは2度、3度の敗北で引退してしまいがちですが、花形選手は精神の強いあきらめないボクサーでした。
あるテレビ番組では「日本一負けの多い世界王者」として紹介されています。

明るい性格の花形選手 は、引退後、ある雑誌のインタビューでこう言っていました・
「負けは気にすんな、勝ちの数だけ数えとけ!」

河野公平

3人目は河野公平選手です。井上尚哉選手や、亀田興毅(こうき)選手といった有名選手達とも試合をしているので、一般の方々にも知られているチャンピオンかもしれませんが、彼はアマチュア時代やデビュー当初はとても世界を獲るような選手とは見られていませんでした。河野選手の所属するワタナベジムの会長ですら「河野には期待してなかった」と言っていたのです。

河野選手はアマチュア時代、よくオープン戦に出場していましたが、キャリアのある選手と当たることが多く、そこまで勝利を収めてはいませんでした。
2000年5月には実業団選手権に出場していますが、初戦で敗退しています。

そしてプロデビュー戦も判定負けしています。ここで普通の人間なら気持ちが折れそうなところですが、彼はここから徹底した改革を行います。
そして、それに手を貸してくれたのが、彼のボクシングデビューに1番反対していた父親の豊蔵(とよぞう)さんでした。

豊蔵さんはリビングの1部を改装し、ウォーターバッグを吊るし、ビデオカメラを取り付け、家の中にジムを作ってくれたのです。さらには、自らプロテクターを付け、河野選手のパンチを受けます。河野選手はそこで、パンチの打ち方、当て方、ガ ドの位置などを細かに修正し、進化してきます。

さらに河野選手は、午前中にロードワーク、その後に自宅でトレーニング、さらに午後からワタナベジムでトレーニングと凄まじい努力を重ねていきます。
河野選手は2002年には東日本新人王に輝き、全日本新人王決定戦に進出。そこで、後の日本スーパーフライ級王者、中広大悟(なかひろだいご)選手と対戦して惜しくも判定負けしてしまいます。

そしてデビューから実に7年目の2007年、菊井徹平(きくいてっぺい)選手を判定で下し、日本スーパーフライ級タイトルを獲得します。そして今度はOPBFスーパーフライ級タイトルを獲得。(判定勝ち)

そして2008年9月、満を持してWBA世界スーパーフライ級王座決定戦に臨みます。対戦相手は名城信男(なしろのぶお)選手です。
デビューから8戦目で1度世界王座を獲得している強豪ですが、河野選手は臆することなく前進を続けます。しかし2-1の僅差で判定負けしてしまいます。

約2年後の2010年9月、今度はWBC世界スーパーフライ級王座決定戦に臨みます。
相手はメキシコのトマス・ロハスでしたが、3-0の判定で敗れ、またもタイトル獲得はなりませんでした。
さらに、再起戦では日本同級タイトルをかけて、後にWBC同級王者となる佐藤洋太(ようた)選手に10回判定負け。
その次の試合も判定負けで、世界戦から3連敗となってしまいます。
普通ならここで気持ちが折れそうなところですが、河野選手はあきらめません。

デビューから実に12年目を迎えた河野選手は、2012年12月31日にタイのテーパリット・ゴーキャットジムの持つWBA世界スーパーフライ級タイトルに挑戦します。
王者にとって4度目の防衛戦でした。王者はこれまで21勝13KO2敗のレコード。
対する河野選手は27勝10KO7敗、二十歳でデビューした彼は32歳となっていました。

人生をかけたラストチャンス。父、豊蔵さんは「奇跡を起こすんだ」と勇気づけていました。
試合は1ラウンドから打ち合いになります。パンチを浴びる場面もありましたが、4ラウンド左フックのカウンターで(55秒)ダウンを奪い、さらにもう1度ダウンを追加(1分34秒)し、連打をまとめ4ラウンド2分8秒KO勝ちで世界タイトルを獲得しました。

アマチュア時代から苦楽を共にしてきた高橋トレーナーと、泣きながら抱き合っていたシーンは感動的でした。そして試合後、河野選手のご両親もリングに上がり、河野選手は父親とガッチリ握手をしました。

勝利者インタビューでは親子そろって、関係者やファンの人たちへの感謝を口にしていました。
努力の男が世界の頂点へ駆け上がった感動の瞬間でした。

西岡利晃

4人目は西岡利晃(にしおかとしあき)選手です。
このチャンネルでは、過去に「感動・泣ける試合TOP10」動画でも取り上げた西岡選手ですが、今回のテーマ「世界を獲った苦労人ボクサー」でも取り上げなくてはならない選手です。

しかし、デビュー当時の西岡選手は全く苦労するようなボクサーではありませんでした。小学校5年生の頃に書いた作文で「将来は世界チャンピオンになる」と夢を語った少年は、プロデビュー当時から逸材といわれ、次期世界チャンピオン候補といわれていました。

しかしプロ2戦目に、後にOPBFバンタム級王者となる中村正彦(まさひこ)選手に4ラウンド(2分12秒)痛烈なKO負けを喫してしまいます。
西岡選手は当時を振り返り「あれは交通事故のようなもの」と言っていましたが、当時は周りが心配するほど落ち込んでいたといいます。

そしてデビュー8戦目に新人王西軍(せいぐん)代表決定戦で、北島桃太郎選手に判定負けしてしまいますが、西岡選手はこの時の判定は「負けたと思っていない」と語っています。

それから引き分けを1つはさみ14連勝を飾ります。中でも日本タイトル獲得となった渡辺純一選手とのバンタム級王座決定戦。16勝13KOのハードパンチャである渡辺選手を相手に、1ラウンド(55秒)に先制のダウンをくらいますが、2ラウンド(1分4秒)得意の左ストレートでダウンを奪い返し、1分44秒に2度目のダウンを奪いそのままKO勝ちした試合。そして、その王座の初防衛で戦った沖縄の仲里繁(なかざとしげる)選手を、8ラウンド(1分41秒)TKOに下した試合などは特筆すべき勝利でした。

誰もが「次に世界にいくのは西岡だ」と思っていました。しかし、そんな日本のホープの前に高き壁となって立ちはだかったのが、タイのウィラポン・ナコンルアンプロモーションです。

ウィラポンは辰吉選手をKOしてタイトルを獲得した選手で、安定感のある選手としてWBC世界バンタム級王座を3度防衛していました。
そして、4度目の防衛戦の相手として挑戦したのが西岡選手でした。

強敵のチャンピオン相手でも西岡選手は「わざわざタイから俺にタイトル取られに来るとは、ご苦労なこったね」とビッグマウスを炸裂させていましたが、
試合では攻めきれず判定負け。ファンからは「勝ちへの執念が見えない」など批判されました。

約1年後に再戦が組まれ、西岡選手は再度ウィラポンに挑みますが、引き分けに泣きます。前回と違ってなりふり構わず攻めていった西岡選手には賞賛の声も聞かれました。

世界王者と引き分けたことによりランキングも1位になり、再再戦が組まれますが、西岡選手のアキレス腱断裂により試合は中止となり、1年のブランクを作ってしまいます。
完治してから改めて3度目の挑戦でウィラポンと戦いますが、再度引き分けに泣きます。さらに4度目の対戦では判定負けを喫します。

実に世界戦4連続失敗となってしまい、ここから西岡選手の長い苦悩の時代が始まります。
2004年3月から4年半、西岡選手はひたすら5度目の挑戦のために待ち続けます。

ノンタイトル戦をこなす日々、後に西岡選手はこの時の心境を「1度でも負けたら終わりだったから、毎試合怖かった」と語っています。
西岡選手は結婚して、幼い子供もいましたが、2008年に大きな決断をします。ボクシングに集中するために、愛する家族と別居することを決めたのです。

それを聞いた帝拳(ていけん)ジムの本田会長(当時)は「馬鹿な事をするな。お前が世界戦をやれる可能性は10%もないんだぞ。すぐに家族を連れ戻せ」と一喝したそうです。

しかし、西岡選手の硬い決意は揺るぎませんでした。そんな決意に応えるかのように、世界戦が決まります。
WBCスーパーバンタム級暫定王座決定戦です。
正規王者のイスラエル・バスケスがあまりに激闘続きだったため、WBC側が休養命令を出した暫定王座決定戦でした。

そして2008年9月、西岡選手はタイのナパーポン・キャッティサクチョーチャイとの試合に臨みます。ナパーポンは45勝39KO2敗1分けのハードパンチャーですが、西岡選手は試合前から「ワクワクしてます。俺が世界チャンピオンになる日だから」と自信をのぞかせていました。

相手陣営には4度戦って勝てなかったあのウィラポンがセコンドについていましたが、西岡選手は臆せず打ち合い、見事大差の判定勝ちで栄冠を果たしました。

さらに正規王者バスケスが網膜剥離により、防衛戦を行うことができないため、西岡選手が正規王者に昇格しました。
ジムの会長からも引退を勧められ、誰もが西岡選手は終わったボクサーと思っていました。
しかし、西岡選手は「自分が世界チャンピオンになれないわけがない」と信じつづけていたのです。

自分の可能性を信じ、固い決意が呼び寄せた良い流れ。それをものにした西岡選手は、その後。スター選手のジョニー・ゴンサレスを敵地で不利と言われながらもKOで下し、ラスベガスでの防衛を果たす等、7度もの防衛を果たし、世界のNISHIOKAになっていくのでした。

ルービン・カーター

世界を獲った苦労人ボクサー最後の1人はルービン・カーターです。彼の壮絶な生涯は「ザ・ハリケーン」というタイトルで映画化されています。

カーターは世界タイトルを獲ったというより、与えられたといった方がしっくりくるかもしれません。
いや、元々すべてを奪われる所からカーターのボクシング人生は始まりました。

1937年にアメリカのニュージャージー州に生まれたカーターは、軍隊時代にボクシングを始め、頭角を表します。
1961年にプロデビュー・27勝19KO12敗1分けの戦績を残します。その中には、後の世界2階級制覇王者、エミール・グリフィスを1ラウンドKO(2分13秒)で下した勝ち星も含まれています。(この画像は、映画ザ・ハリケーンの冒頭で実際の映像あります)

世界ランキング3位となったカーターは、1964年12月にはジョーイ・ジャーデロとWBA・WBCミドル級タイトルマッチを行っていますが、判定で敗れています。
そんなカーターの人生が左右される出来事が起きたのは、1966年6月の事でした。地元ニュージャージーの酒場で、店主と2人の客が射殺される事件が起きます。  
そして、目撃者の証言と一致していたカーターは逮捕されたのです。

カーターは裁判で終身刑を言い渡されてしまいます。凶器は発見されておらず、十分な証拠はなかったにもかかわらず、当時、黒人差別が酷かったアメリカで陪審員は全員白人、カーターには少年時代に窃盗罪で捕まった犯罪歴もあり、そのことが不利に働いたのでしょう。

カーターは冤罪を訴えました。すると、当時盛り上がっていた、公民権運動と合わさり、たちまち社会的な問題へと発展していきます。
ボブ・ディランやスティビー・ワンダーはカーターのために歌を作り、応援します。モハメドアリも声をあげます。
しかし再審でも終身刑は変わりません。あきらめきれないカーターと、その支援者たちは証拠集めなどを続けていき、ついに検察によって隠蔽されていたいくつかの証拠を発見します。

そして1988年カーターは約20年に及ぶ無実の投獄から解放されます。
1993年にWBCは彼を名誉王者と認定して、ベルトが付与されました。1999年には「ザ・ハリケーン」として映画化もされています。(映画はドキュメンタリーではなく、脚色されています)

通常の世界王者とは全く異なるベルトですが、差別や偏見の犠牲になった末に、真実を証明するために約20年もコツコツと努力を重ね、ようやく実らせた執念と精神力は素晴らしいものでした。

番外編 世界に届かなかった苦労人1人

漫画「はじめの一歩」の鴨川会長の言葉で「努力したものが必ず報われるとは限らない。でも成功したものは、みな、すべからく努力している」というものがありました。
ここまでご紹介してきたボクサー達は、皆、最終的に世界を獲った選手達でしたが、ここで番外編として苦労したが世界に届かなかったボクサーを1人紹介します。

彼の名前はリック吉村。リック選手はアメリカ出身の黒人ボクサーです。ニューヨークで2戦2敗の後、日本の三沢基地に軍人として転勤になります。
そこでもボクシングを続け、90年には日本スーパーライト級タイトルを獲得。東京の横田基地に転勤となった後は、日本ライト級タイトルを獲得。

そのタイトルは坂本博之選手に9回TKO負け(38秒)で手放しますが、95年1月に前田宏行(ひろゆき)選手を判定で破り返り咲きます。
そこからリック選手の長く、果てしない防衛ロードが始まります。

外国人だったリック選手はスポンサーが付かず、なかなか世界挑戦のチャンスに恵まれません、何人ものボクサー達がリック選手の横を通り過ぎていきます。

6年間で22度の防衛は歴代最多防衛記録です。外国人であり、世界挑戦の機会に恵まれなかったが故に、日本タイトルの最多防衛記録が外国人の手によって更新されたのです。
少し、皮肉な感じがしますね。

リック選手は腐らずに防衛を続けていき、2001年2月、ようやく世界挑戦のチャンスが訪れます。
WBA世界ライト級チャンピオン畑山隆則(たかのり)選手のタイトルへの挑戦です。リック選手は36歳になっていました。
試合前、畑山選手はこんなことを言っていました。
「リックには挑戦者として致命的な欠点がある。引き分けはあるかもしれないけど俺の負けはない」
一方のリック選手はボクシング人生のすべてをかけて試合に挑みます。

試合はフットワークを使いながらアウトボクシングをするリック選手に対して、追いかける畑山選手といった図式に終始します。
アグレッシブに攻勢を取る畑山選手に対して、左ジャブと巧みなクリンチでポイントを拾っていくリック選手。
しかし9ラウンド、あまりにあからさまなホールディングによってリック選手は減点1を科されます。(1分58秒)

そして試合は判定へ。ジャッジは1人が116対111で畑山選手、1人が115対112でリック選手、そして最後の1人が114対114の引き分けでした。
1-1の引き分けでリック選手はタイトル奪取なりませんでした。「たられば」は通用しませんが、もし9ラウンドの減点がなければ2-1でリック選手は勝っていました。 

判定が出た時の愕然としたリック選手の顔は今でも忘れられません。
冒頭の鴨川会長のセリフに戻りますが、成功したものはみな努力をしています。世界チャンピオンになることを成功ととらえた場合、リック選手は成功しなかったことになります。

しかし、努力しなければ成功へは辿りつけません。では、成功しなければ、その努力は消えてしまうのでしょうか?
私はそうは思いません。
リック選手は世界戦の前に言っていました

「何度もあきらめたくなった。でもあきらめたらチャンスはこない、だから続けるんだ」

そのあきらめなかった精神力は、この後のリック選手の人生で必ず活かされるはずです。
現在リック選手は、日本でジムを開き後進の指導に当たっています。いつか、教え子の中からリック選手に代わって夢を叶えるボクサーが出てくることを願わずにはいられません。

あとがき

1人のボクサーと深く付き合えば、1つのドラマが見られます。
ボクサー1人1人に背負ってるものがあり、まるで小説のようなストーリーがあります。
今回の人選も困難を極めました。ルビン・カーターを紹介するなら、冤罪で終身刑を言い渡された日本版カーターの袴田(はかまだ)さんも紹介したかったですし、他にもたくさんドラマを背負っている選手がいます。
全員を紹介することはできないので、私の中で特に印象的な選手達をご紹介させていただきました。

ボクサー達は世界を獲るために日々努力を続けます。様々なことを犠牲にして高みを目指します。その中で頂上までたどり着けるのは、ごく1部です。苛酷であるとともに、悪魔的な魅力があります。
そして彼らはいつも「あきらめない事の大切さ」を教えてくれるのでした。

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