ボクシング 感動・泣ける試合ランキングTOP10

本日はボクシングの感動の試合、及び、泣ける試合TOP10をご紹介していきます。
国内外問わず、年代も問わずのランキングになります。

尚、このランキングは主観的なものであり、人気や公式に決められているものではありません。
そして私個人の各選手への思い入れや、それらの選手の生きてきた道などを踏まえた上で決めています。
そのため、個人的な好みなども出てしまう所があるかと思いますが、予めご了承ください。

目次

ボクシング 感動・泣ける試合10位~6位

第10位 メキシコの太陽の落日

2000年7月29日。WBCスーパーライト級タイトルマッチ
コンスタンチン・チュー(王者)VSフリオ・セサール・チャベス(挑戦者)

チャベスはメキシコで「大統領と同じくらい知名度がある」、と言われている英雄です。
1980年のプロデビュー以来、パーネル・ウィテカーと引き分けるまで87連勝(75KO)を記録しています。
メキシコの英雄、J・Cスーパースターと呼ばれています。3階級制覇しており、計6本のベルトを獲得しています。
そんなチャベスも年とともに衰えを露わにしていきます。フランキー・ランドールに敗れ、初黒星を喫し、デラホーヤとの世代交代戦に敗れ、後退を余儀なくされます。

しかしチャベス人気は衰える事を知らず、チャベスは戦い続けます。そして、38歳で挑んだ世界戦。
この時点でのチャベスのレコードは103勝(86KO)4敗2分けという驚異的なものでしたが、最近の試合で無名の選手に負けを喫するなど衰えを感じさせています。
王者コンスタンチン・チューの3度目の防衛戦として行われたこの試合は、会場はほぼチャベスファン一色です。王者は入場から大ブーイングで迎えられてしまいます。

チューはこれまで、24勝(20KO)1敗1分けのレコードを持ち、アマチュア世界選手権で金メダルを獲得後、オーストラリアのプロモーターと契約したロシア人エリートボクサーです。
試合が始まると、チューがジリジリとプレッシャーをかけて前進するのに対して、チャベスは後退しながらビッグパンチを放っていきます。(1R50秒くらい)

全盛期のチャベスは後ろに下がるなど考えられない事で、プレッシャーを感じているのは明らかでした。そしてパンチを打ったあとバランスを崩す場面も多く見られます。(1R1分40秒)
徐々に劣勢になっていくチャベスは、6ラウンドに右ストレートをカウンターで貰い、膝をつきダウンしてしまいます。(6R38秒)立ち上がったものの、その後もパンチを貰い続けます。

しかしチャベスは立ち続け、前に出続けます。ファイターの本能がそうさせるのではないでしょうか。見事な闘志です。
しかしロープに詰められパンチを浴び続けた所で、セコンドがリングに上がったのとほぼ同時にレフリーが試合を止めました。(6R1分30秒)

試合後、メキシコのファンは王者に対して、物を投げつけブーイングしますが、王者チューはチャベスの所へ行き、敬意を表していました。
この試合は日本でも放送されましたが、解説を務めた元世界王者の浜田剛さんは「思い通りに体が動かないですね」と試合中何度も言っていました。
浜田さんとチャベスは同時期に1つ違いの階級の世界王者であったため、浜田さんとしても思い入れのある選手で、思うように動けないチャベスのもどかしさを自分のことのように思っていたのだと感じました。
全盛期を知っているファンは皆、もどかしさと、悔しさを感じた試合であったでしょう。この日、1つの伝説に幕が下ろされたのでした。

第9位 娘に伝えたかった、あきらめない心

WBAスーパーミドル級タイトルマッチ
アンソニー・ムンディン(王者)VS西澤ヨシノリ(挑戦者)2004年1月19日

西澤選手は名門ヨネクラジムに19歳で入門し、二十歳でプロデビューしています。
パンチが強いのが災いし、拳の怪我に何度も泣かされます、3年間で6敗2分けと勝ち星に恵まれなかった日々をすごします。

3度の日本タイトル挑戦に失敗してしまいます。しかし西澤選手はあきらめず、31歳で4度目の日本タイトル挑戦で、タイトルを獲得します。
しかしミドル級というクラスは激戦クラス、なかなか世界のチャンスは回ってきません、しかし不屈の男、西澤選手はあきらめず、試合をこなしていき38歳で初の世界挑戦をします。
敵地オーストラリアに乗り込んでの試合でした。奥さんと、5歳になる愛娘の由華(ゆか)ちゃんも、現地で応援しています。

チャンピオンのムンディーは、オーストラリアの先住民である、アボリジニーで、父親もプロボクサーでした。ここまで19勝15KO1敗のレコードを持つハードパンチャーです。
西澤選手はアウェイとは思えないほど落ち着いた表情で入場してきます。試合が始まっても西澤選手は、いつも通りのボクシングを展開していきます。
第2ラウンド、観客席から「パパー」と叫ぶ声が何度も聞こえてきます、リングサイドで応援している、娘さんの声です。(2R開始から聞こえます)

その声援に応えるように西澤選手は右のカウンターでダウンを奪います。(2R2分50秒)チャンピオンは立ち上がりますが西澤選手はペースを握るチャンスです。
しかしそこでラウンド終了のゴングになります。流れを掴みかけている西澤選手ですが、次のラウンドからチャンピオンが底力を見せつけます。

3ラウンド開始から猛攻を仕掛けるチャンピオン。
西澤選手も臆せず、打ち合いに応じます。(3R20秒)中盤から展開は落ち着きますが、チャンピオンは休みながら、スピーディーなジャブを打ってきます。(3R1分30秒)
続く第4ラウンド、西澤選手はチャンピオンのクロス気味の右を立て続けにもらい、ダウンを喫してしまいます。(4R2分15秒)すぐに立ち上がり笑顔を見せますが、ダメージは明らかです。

チャンピオンはここぞとばかりに、仕留めにかかりますが、西澤選手も執念で打ち返します。(4R2分45秒)
このラウンド終了後、地元オーストラリアの解説者は西澤選手のタフさを「サムライスピリット」と形容していました。
しかし第5ラウンド、西澤選手はチャンピオンのパンチで2度目のダウンを喫してしまいます。(5R25秒)
すぐに立ち上がりますが、レフリーはそこで試合を止めました。

この試合のハイライトは試合後にやってきます。敗れた西澤選手の娘さんが、リングの上に上がったのです。父親の敗北を目の前で見た娘さんは、涙を流しています。
そこで西澤選手はこう言います。

「泣かなくていい。パパ頑張った。立ったぞ、ちゃんと。泣かなくていいよ由華。由華はパパの子だから強くなりなさい。わかった?」
このシーンは、オーストラリアのテレビでも放送され、勝ったチャンピオンではなく、この場面をカメラで写していました、そして、解説者は「美しい光景ですね。」と感動の言葉を送り、西澤選手を「本物の戦士」と称えています。

同年4月10日、OPBF東洋太平洋スーパーミドル級王座を勝ち取り、リング上で

「この勝利は娘にプレゼントしたいと思います。」

と、涙ながらに言いました。

西澤選手はこのあとも現役を続けました。

なんと47歳まで戦い続け、45歳の時にUBCおよびWPBF世界クルーザー級王者になりました。
あきらめない不屈の闘志は多くの人間を感動させました。

第8位 鉄人タイソンの初黒星

統一世界ヘビー級タイトルマッチ
マイク・タイソン(王者)VSジェームス・ダグラス(挑戦者)1990年2月11日

タイソンは後に悪童とかヒール役のイメージが強いボクサーになりますが、子供の頃は気弱で、オドオドした少年だったそうです。
当時可愛がっていた鳩をいじめっ子達に痛めつけられているのを見たタイソンは、いじめっ子たちをその場で殴り倒したといいます。
そしてそこからタイソンの不良人生が始まります。
非行を繰り返し、少年院に入り、仮釈放されの繰り返しでしたが、13歳でボクシングに出会いタイソンは変わっていきます。
師カス・ダマトに教えを受け、アマチュアの試合でKOの山を築いていきます。五輪出場は逃しましたが、プロに転向してからも連戦連勝。史上最年少の二十歳でヘビー級タイトルを獲得します。
そして3団体を統一する偉業を成し遂げます。

1988年の3月には東京ドームのこけら落としとしてタイソンは来日し、試合をしています。この時はトニー・タッブスを相手に防衛戦を行い、2ラウンドKO勝ちで圧勝しています。(2R2分42秒)
この辺りがタイソンの全盛期だったのではないでしょうか。
トレーナーのダマトが他界してからタイソンは、後任のトレーナーであり、タイソンの私生活においても
重要な存在だったケビン・ルーニーを解雇し、マネージャーのビル・ケイトンをも解雇してしまいます。
ここからタイソンは私生活での理解者や、支えを失い自制が効かなくなってしまいます。

タイソンの2度目の来日となったのは1990年2月、統一ヘビー級タイトル7度目の防衛戦でした。相手はジェームス・ダグラスです。
29勝(19KO)4敗1分け1無効試合のレコードで、WBC3位、WBA4位にランクされている選手ですが、試合のオッズは42対1と、タイソン圧倒的に有利でした。
タイソンはこれまで37戦全勝33KOと怪物的なレコードです。

試合の焦点は「タイソンが何ラウンドに倒すか」とみんな思っていました。しかし、試合が始まるとダグラスのジャブがよく当たります。リズムも良く、スピードのあるパンチをヒットさせていきます。(1R1分45秒)
タイソンが懐に飛び込んでくると、すかさずクリンチでしのぐダグラス相手に、タイソンはなかなかリズムを掴めません。(1R2分45秒)

2ラウンドにはダグラスが右のカウンターをヒットし、タイソンをグラつかせます。(2R40秒)
3ラウンドも、ダグラスはカウンターをヒットさせ、タイソンにダメージを与えます。(3R36秒)
タイソンはどうしてもダグラスのジャブをかいくぐって中に入れません。
いつものように、体を小刻みに振る動作も見られません。

5ラウンドにはタイソンの左目が腫れてきます。無敵のタイソンのこんな姿は見たことがありません。
しかし、この時点でもファンは「それでもタイソンの強打が爆発して、倒してくれるさ!』と信じていたと思います。それに応えるようにタイソンは8ラウンドに右アッパーでダウンを奪います。(8R2分55秒)
ダグラスはカウント9で立ち上がり、そこでゴングとなります。
ゴングに救われたダグラスですが、この時のレフリーのカウントが長かったと議論になり、ロングカウント事件としてボクシング界に語られていきます。
インターバルで回復したダグラスは9ラウンド、タイソンをロープに詰めます。完全に効いているタイソン。それでも、目を腫らしながらも前進するタイソン。

そして迎えた第10ラウンド、ダグラスの連打を浴びてタイソンがダウン(10R1分7秒)。衝撃的な光景でした、マウスピースを拾い上げ必死に立ち上がろうとするタイソン。
無敵を誇ったマイク・タイソンがもがきながら、それでも勝つことに対してあきらめない姿勢には感動を覚えました。
しかしダメージは深く、レフリーが試合をストップします。歴史が変わった瞬間であり、タイソンの波乱に満ちたボクシング人生の始まりでもありました。

第7位 モンスターレフトが誕生した試合

WBC世界スーパーバンタム級タイトルマッチ
西岡利晃(王者)VSジョニー・ゴンサレス(挑戦者)2009年5月24日

西岡選手はデビュー当時から次期世界チャンピオンと言われながらも、苦労に苦労を重ねて、ようやく王座を掴んだボクサーです。
初めての世界挑戦でタイのウィラポンに判定負け。1年後の再戦では引き分けで、惜しくもタイトルを逃し、3度目の対決が組まれますが怪我で延期になってしまいます。
怪我を治療し、ブランクから明けての3度目の対決も引き分け。4度目の対決で判定負けを喫してしまいます。

それから4年半、西岡選手はひたすら5度目の世界挑戦の機会を待ち続けます。そして2008年9月、ナパーポン・キャッティサクチョーチャイ(タイ)とのWBC暫定スーパーバンタム級王座決定戦に判定勝ちし、世界タイトルを獲得します。(獲得後に正規王者へ昇格)
そんな西岡選手が迎えた2度目の防衛戦。相手はメキシコの爆撃機の異名を持つハードパンチャー、ジョニー・ゴンサレスです。

この試合は入札となり、敵地メキシコでの試合となりました。日本の長いボクシングの歴史上、敵地で世界タイトル防衛に成功したのは渡辺二郎ただ1人です(当時)。
しかも相手のゴンサレスは、本場アメリカでもビッグマッチを行っている選手で40勝(34KO)6敗のレコードを持っています。

この試合、メキシコではゴンサレス有利が圧倒的で、ゴンサレスの次の試合まで組まれている状況でした。西岡選手はチャンピオンにもかかわらず、完全にかませ犬の立場でリングに上がったわけです。
リングに上がった西岡選手にブーイングが飛びますが、西岡選手は集中している様子でした。1ラウンド目から積極的に仕掛けるゴンサレスに、立ち上がり緊張からか硬さのあった西岡選手は不用意にパンチをもらい、ダウンを喫してしまいます。(1R2分33秒)

しかし、ダウンで目が覚めたのか、続く2ラウンドからはいつもの動きが戻ります。そして迎えた3ラウンド、西岡選手はメキシコのファンの度肝を抜きます。
サウスポーの西岡選手は、やや右にステップしてからの左ストレート一発。ゴンサレスは大の字にキャンバスへ沈んでいきます。見事なクリーンヒット。(3R59秒)

何とか立ち上がったゴンサレスですが、レフリーはそのまま試合を止め、西岡選手のKO勝ちとなりました。肩車され、雄たけびを上げる西岡選手。
そのあまりの喜びようが、いかにここまで緊迫した状況であったかを物語っていました。
後に西岡選手は、ある番組で「生きていて、雄たけびを上げることなんてないじゃないですか。あそこまでの喜びはもうないんじゃないですかね。」と語っています。

この試合はWBCのベストKO賞を受賞しています。メキシコの人気選手ゴンサレスを、一発で沈めたその破壊力にメキシコでは、その日から「モンスターレフト」と西岡選手の左を形容するようになりました。
ぎりぎりの緊張感の中、初回にダウンを奪われてからの逆転KO勝ちは、西岡ファンにとっては感動と興奮を与えてくれた試合でした。

第6位 戦い続ける石の拳

WBA世界ミドル級タイトルマッチ 1998年8月28日
ウィリアム・ジョッピー(王者)VSロベルト・デュラン(挑戦者)
デュランは70年代にデビューしたパナマ人のボクサーです。ライト級で世界タイトルを獲得し、無類の強さを見せつけます。日本でも、ガッツ石松の挑戦を受け、10RKO勝ちを飾っています。
その後ウェルター級に階級を上げ、シュガー・レイ・レナードに判定勝ちし、2階級制覇を達成。さらに、スーパーウェルター級、ミドル級も制覇し4階級で王者になります。

レナードやハーンズらとともに、80年代の中量級を盛り上げた立役者の1人です。
1度引退してからカムバックする選手は多いですが、デュランは戦い続けます。そして47歳で再び世界王座に挑戦するのです。
デュランは101勝70KO13敗という、凄まじいレコードを持っています。一方チャンピオンのジョッピーはアメリカ出身の黒人選手です。22勝19KO1敗1分けとかなりのレコードを誇る27歳の選手です。

両者の年齢差は20歳あり、デュランが初めて世界タイトルを獲得した時、ジョッピーはまだ1歳でした。
デュランはこの試合に勝つと、全階級通じて最年長世界タイトル保持者となる試合です。
しかし、試合が始まるとデュランに全盛期のパンチのスピードや、フットワークは見られません。

カウンターを合わせるのが上手いデュランですが、得意のカウンターも見られません。ジョッピーのスピードについていけず、1ラウンドからパンチを貰ってしまいます。(1R2分58秒)
続く第2ラウンド、デュランは頭をつけての打ち合いに挑みますがやはり、王者のパンチを浴びてしまいます。(2R1分10秒)

そして3ラウンド、立て続けに王者の連打を浴びてしまいますが、(3R1分40秒)デュランは倒れずに手を出します。
しかしラウンド終了直前にレフリーに試合を止められてしまいます。(3R2分59秒)
試合後のリング上でジョッピーはデュランのコーナーに行き、言葉を交わします。ジョッピーにとってもデュランは憧れの選手だったと語っていましたので、敬意を表してのことなのでしょう。

デュランは2001年まで戦い続け引退を表明します。彼を戦いに向かわせるのは何なのでしょうか。一説では滞納した税金を払えないからという話もありますがそれだけではないでしょう。

もう一度、栄光のチャンピオンベルトを巻くんだという気持ち、そして、挑戦し続けることに意義を感じているのかもしれません。
戦い続けるデュランの背中に、恰好良さと一抹の寂しさを感じた試合でした。

ボクシング 感動・泣ける試合5位~1位

第5位 永遠のチャンピオン

WBAフライ級タイトルマッチ
大場政夫(王者)VSチャチャイ・チオノイ(挑戦者)1973年1月2日

1つの卵を7人の兄弟で分け合って食べるほど貧しい家庭に育った大場選手。「チャンピオンになって母親に家をプレゼントする」と心に決め、ボクシングを始めたといいます。
15歳で名門帝拳ジムに住み込みでボクシングキャリアをスタートさせます。17歳の時に1ラウンドKO勝ちでプロデビューを飾った大場選手は2度の敗北と1度の引き分けを経験しますが、21歳の時に世界初挑戦でタイトルを奪取します。
そして5度目の防衛戦でチャチャイ・チオノイと対戦します。1ラウンド、いきなり右のフックを喰いダウンを喫した大場選手。(1R37秒)しかもダウンの際に右足を捻挫するアクシデントに見舞われます。

足を引きずりながら戦う大場選手の姿は多くの感動を呼びます。のちに対戦相手のチャチャイは、あるテレビで「手ごたえのある右フックだった。オオバの闘争心に驚いた」と語っています。
大場選手は立ち上がりますが、チャチャイは連打で畳み掛けます。効いたパンチを貰うも、根性でこのラウンドを凌いだ大場選手。

苦しい展開が続きますが、左ジャブで試合を立て直し、迎えた12ラウンド。連打でチャチャイから2度のダウンを奪い、レフリーストップ。(フルラウンドの試合がないため、正確な秒数は分かりません)5度目の防衛に成功します。
この試合はいまでもボクシング界で語り草となっている名ファイトです。そして、足を引きずりながら戦う姿は、のちに漫画「はじめの一歩」での試合のモデルになっています。(宮田VS真柴)

そして、この試合から23日後、大場選手は車の運転中に事故を起こし、帰らぬ人となったのです。
対戦相手のチャチャイは「オオバは俺の代わりに死んでくれたのかもしれない、もし、俺が勝ってたら、俺がああなっていたかもしれない」と後に語っています。
当時の日本で形はどうあれ、王者のまま引退したのは大場選手だけでした。そして今でも永遠のチャンピオンとしてファンの記憶に残っています。合掌

第4位 貫き通した男の美学

WBAスーパーフライ級タイトルマッチ
鬼塚勝也(王者)VS李炯哲(イ・チョンチル)(挑戦者)1994年9月18日

鬼塚選手は平成黄金期を支えた人気ボクサーの1人です。中学の頃に観た世界タイトルマッチに影響を受け、ボクシングを始めます。
アマチュアでは、インターハイ優勝などの輝かしい記録を残し、プロ入りに際しては片岡鶴太郎さんがマネージャーに付くほど注目されていました。

プロ入り後も連戦連勝で、日本タイトルを獲得し、無敗のまま世界タイトルに挑みます。
試合は僅差でしたが、鬼塚選手が判定勝ちし、見事世界王者になりました。その後、5度の防衛を果たし、この日が6度目の防衛戦でした。

挑戦者は韓国の李炯哲(イ・チョンチル)17勝(13KO)4敗、ランキング1位の氏名挑戦者です。
試合は鬼塚選手が序盤、得意のジャブを当てながら、試合を組み立てていきますが、(試合開始から)3ラウンドから挑戦者が果敢に前進して、接近戦になります。
しかし、王者は引きません。至近距離での打ち合いに応じ、逆に打ち勝って挑戦者にダメージを与えていきます。(3R1分30秒から)

つづく第4ラウンドも王者は良い展開を作りますが、(4R1分16秒)第5ラウンド、挑戦者の連打を浴び、ロープに詰まります。(5R1分30秒)しかし、ここで打ち返すのが鬼塚選手の凄い所です。
果敢に打ち合いに応じます。何とかピンチを凌いだチャンピオンですが、第9ラウンド、再び挑戦者の連打を浴びて、ロープに詰められます。(9R1分39秒)

何発も効いたパンチを打たれながらも、鬼塚選手は手を出し続けます、よろけながらも手を出す素晴らしい精神力です。しかしラウンド終了間際にレフリーは試合をストップしました。(9R2分58秒)
鬼塚選手にとって25戦目にして初めての敗北でした。

試合後に引退を表明した鬼塚選手ですが、ここで衝撃の事実が明らかになります。なんと鬼塚選手は網膜剥離だったのです。
日本ボクシングコミッションのルールでは網膜剥離となった選手がリングに上がることはできません。そのため、鬼塚選手はその事実をひた隠し、この試合が最後だと決めてリングに上がったといいます。
試合前に専属トレーナーの、古口トレーナーが他のジムに移籍という形となり、鬼塚選手の元を離れましたが、それもトレーナーに責任を負わせたくないという鬼塚選手の配慮であったといわれています。
(試合では出向きという形で古口トレーナーはセコンドについています)

ボクシングの世界戦では、試合前に予備検診があり視力検査もあるのですが、鬼塚選手は検査機器のパターンを暗記して臨んだともいわれています。
過去の防衛戦では勝ちに徹するところも見せていた鬼塚選手。リングネームを「勝也」にするほど、勝ちにこだわっていました。(本名は隆)
「負けたらすべてが嘘になる」とよく言っていたのが印象的でした。
そこまで勝利に対しての信念があった鬼塚選手が最後に見せた壮絶な打ち合い、最後と決めて臨んだ試合でのあのスタイル。そこに鬼塚選手の美学を見た思いがしました。

第3位 不死鳥飛ばず

WBCバンタム級タイトルマッチ
ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(王者)VS辰吉丈一郎(挑戦者)1999年8月30日

この試合から8か月前、両者の立場は逆でした。王者の辰吉選手は3度目の防衛戦の相手としてランキング4位のウィラポンを迎えました。
そして、6ラウンド(2分47秒)KO負けでタイトルを失っています。辰吉選手にとって、屈辱の大の字でダウンさせられてのKO負けに、日本のファンはショックを受けました。
その雪辱戦として迎えたこの試合ですが、辰吉選手は前回の試合後に父親を亡くしており、「父ちゃんのためにも、もう1度チャンピオンになって引退する」と宣言していました。

まさに、人生のすべてを掛けて臨んだ試合といえるでしょう。これまで世界戦3連敗後に、絶対不利の予想を覆して世界タイトルを奪取したりと、数々の奇跡を起こしてきた辰吉選手。
ファンも「辰吉ならやってくれる」と期待をかけていました。
一方のウィラポンは「自信は100%」と語っています。

「親父と始めたボクシング、終わる時も一緒に終わる」と辰吉選手はガウンに父親の写真を刺繍して入場してきます。
しかし、そんな辰吉選手の気持ちも空しく、試合は1ラウンドから、辰吉ファンにとって辛い展開となります。ウィラポンのビッグパンチを浴び続け、立ってるのがやっと、といった場面が続きます。(1R2分20秒)

中盤に入ると、いつレフリーが試合を止めてもおかしくない展開が続きますが、辰吉選手は倒れません。手を出し続けます。
前回KO負けした瞬間は、悲鳴を上げて泣き崩れた”るみ夫人”も、今回は覚悟を決めた表情で試合を見守っています。
そして7ラウンド、ウィラポンのパンチを浴び続けた辰吉選手を見て、レフリーは試合をストップしました。(7R44秒)

その瞬間、辰吉選手は糸が切れたかのように崩れ落ちそうになったところをレフリーと、そして対戦相手のウィラポンに支えられます。
90年代からボクシング界を牽引してきた英雄の落日でした。鳴り止まない辰吉コール、名残惜しそうにリング内を歩き回る辰吉選手。とても感動する場面でした。

控室に戻った辰吉選手は、2人の子供を見ると「父ちゃん格好悪かったやろ」といって、泣きながら息子たちを抱きしめていました。2人の子供は、「そんなことない」、という表情をしながら涙を流していました。
その光景はテレビでも放送され多くの感動を呼びました。

第2位 キンシャサの奇跡

WBA・WBC世界統一ヘビー級タイトルマッチ
ジョージ・フォアマン(王者)VSモハメド・アリ(挑戦者)1974年10月30日

モハメド・アリはローマ五輪で金メダルを獲得するも、祖国アメリカに帰国した際に、入店したレストランで、黒人であるが故の差別を受け「こんなメダルはなんの意味もない」と、メダルを川に投げ捨てたという有名エピソードがあります。
アリはその後プロデビューし、今まで力だけで勝負していたヘビー級にスピード革命をもたらします。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」の名言も残しています。

ビッグマウスで相手を挑発したり、予告KO等でマスコミから批判もされつつ、人気も博していきました。
リング外でもアリは、当時激化していたベトナム戦争への兵役を拒否し、世界タイトルを剥奪され、アメリカ最高裁と裁判になるなどして、3年7か月のブランクを作ります。(アリの無罪)

そして、32歳となっていたアリが挑戦した相手が、ジョージ・フォアマンです。フォアマンはメキシコ五輪金メダリストで、プロ転向後、破竹の強さで連勝を重ねます。
過去にアリが敗れている、ジョー・フレイジャーをわずか2ラウンド(秒数不明)で粉砕し、世界王座を獲得後、やはり過去にアリを下している、ケン・ノートンをも2ラウンド(1分55秒)で倒していて、これまで40戦全勝37KOを記録しています。

試合はスタートからフォアマンがパワーパンチを打ち込んでいき、アリがガードしながらロープを背負う場面が続きます。しかしアリはロープを背負いながらも
フォアマンに対して「もっと強いパンチ打ってこいよ」と挑発を繰り返します。(1R1分40秒)アリはロープの反動を利用して、パンチをかわしたり、巧みなクリンチでフォアマンの強打を封じていきます。(3R25秒)
6ラウンドが過ぎたころには、フォアマンはスタミナを切らし、失速してしまいます。(6R全般)

この時を待っていたとばかりに、アリは反撃に転じます。そして8ラウンド、完全に打ち疲れたフォアマンをアリの右ストレートが捕え、フォアマンはダウン。(8R2分46秒)試合続行できず、アリのKO勝ちとなります、この時のアリの戦法はロープアドープと呼ばれ、今でも伝説となっています。

当時30歳を過ぎても現役を続けているボクサーは、ほとんどいませんでした。「アリはもう終わった選手」などと陰口を言われながらも、最強の王者相手に堂々の勝利を収めたアリに、世界中のファンは感動し、アリは絶賛されました。
アリは後に「自分が負けるということは、虐げられているすべての人々が負けるということだ」と語ったことがあります。

アリは黒人差別と闘い、黒人の代表と自負していたのかもしれません。そしてアリは20世紀最高のスポーツヒーローにも選出されています。
一方のフォアマンは後に、アリに負けた時のことを「自信や、自尊心は破壊され、人間として敗北したと感じていた。人生で最も辛い出来事だった」と語っています。

しかしフォアマンはこの試合から20年の時を経て、人間としての尊厳を取り戻します。

第1位 45歳最年長(当時)世界タイトル奪取

WBA・IBF世界ヘビー級タイトルマッチ
マイケル・モーラー(王者)VSジョージ・フォアマン(挑戦者)1994年11月5日

ジョージ・フォアマンはモハメド・アリに敗れてから、しばらくして28歳で引退し、キリスト教の伝道師となりました。
全米各地を周り、布教活動をしていたフォアマンでしたが10年の時を経て復帰します。
復帰後のフォアマンはかつての引き締まった身体ではなく、でっぷりと太り、頭をスキンヘッドにして登場しました。
復帰後2度世界挑戦しますが、いずれも失敗。

そして迎えた3度目の挑戦がマイケル・モーラーとの試合でした。
王者モーラーは、もともと1階級下のライトヘビー級王者でしたが、イベンダー・ホリフィールドを破り、ヘビー級タイトルを獲得しています。35戦全勝30KOの若きホープです。
フォアマンはこの試合、20年前のキンシャサでの試合時と同じデザインのトランクスを身に着けています。そしてセコンドにはかつて、キンシャサで、アリのチーフセコンドを務めたアンジェロ・ダンディーがついています。

試合は開始からモーラー優勢で進みます。体格ではフォアマンの2回りほど小さいモーラーですが、サウスポースタイルから繰り出される、スピードのある右ジャブを効果的に当てていきます。
さらには左アッパーもヒットさせ、(1R1分27秒)フォアマンにダメージを与えます。
8ラウンド、フォアマンは王者のパンチを貰い、大きく後退します。(8R1分25秒、2分57秒)キンシャサでのKOラウンドとなった8ラウンドだったために、悪夢が頭をよぎりますが、フォアマンは凌ぎます。
そして迎えた第10ラウンド。フォアマンは会心の右ストレートをヒットさせ、モーラーをダウンさせます。(10R1分47秒)

王者は立てず、そのままフォアマンのKO勝ちとなりました。最年長(当時)での世界タイトル奪取とともに、20年前のキンシャサの悪夢に打ち勝った瞬間でした。
この試合から3年前、フォアマンはイベンダー・ホリフィールドの持つ世界タイトルに挑戦しましたが、試合前のセレモニーの際に、アリがリングに上がりフォアマンにこう言ったそうです。
「炎のように祈っているよ。」もしかしたら、そのアリの祈りは3年越しで実を結んだのかもしれませんね。

キンシャサで、アリに敗れたフォアマンですが、その後アリへの想いは尊敬と親しみに変わっていきました。フォアマンは伝道師となってから、地元テキサス州に青少年育成のためのジムを設立しますが、そのジムの壁には今でもモハメド・アリの絵画が飾ってあります。

あとがき

感動した、泣ける試合TOP10を作成する際に、最も悩んだのは、やはり、どの試合を選ぶかでした。
長くボクシングを観ていれば、感動の試合は、それこそ1000試合でも足りないくらいです。私が選んだ試合は、最終的には個人的な選択になります。

私が最も感性が多感だった、10代、20代に観ていたボクサー達には特別な思い入れがあります。
そういった理由から、チャベス、タイソン、デュラン等の試合を選びました、国内では、鬼塚選手、辰吉選手にはかなりの影響を受けているので、その2人もはずせませんでした。
(1位に選んだフォアマンとモーラーの試合は2位のアリVSフォアマン戦からの流れで観て頂けると、分かり易いと思います。

フォアマン自身が人生で最も辛かった出来事と語るアリ戦の敗北を乗り越えたのが、20年後のモーラー戦だったと思います。その20年分の想いをこめて1位に選びました。)

このランキングを観てくださる方の中には、もしかしたら、「自分の好きな試合が入ってない」と思う方もいるかもしれませんが、そこは個人的な好み、ということで、ご了承ください。

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